昭和寅次郎の昭和レトロブログ

昭和を知らない世代による昭和レトロ、昭和芸能のブログです!

昭和女優ファイル大映編②京マチ子(紆余曲折期)~出演には恵まれるもメディアから演技を厳しい目で見られる~

 

前回からの続きです

 

shouwatorajirou.com

 

3回目となる今回は国際的に注目され

外国映画に起用されたり

長年疎遠となっていた父に再開できたりと

いいこともありつつ、女優として

新しい演技を求められるもなかなか

思うように応えられずに苦労した

そんな時期について迫ります

 

京マチ子プロフィール(続き)

 

エリザベス・テイラー(左)とモンゴメリー・クリフトに囲まれて。

京マチ子は出演作が続々と国際映画祭で受賞し、彼女に会いたがる

ハリウッド・スターは多かった)

 

出演作品が次々とグランプリに輝いた

1954年は豊田四郎監督の「或る女」に主演

京マチ子の個性を積極的に引き出そうとして

企画された野心作で、有島武郎の小説を

原作に人々が自我の主張を悪と感じていた

明治30年代、欲望のままに敢然と

生きようとした女を描き、彼女は熱演だった

 

過去作品のリメイクや楊貴妃役に抜擢される

 

以後、「愛染かつら」「春琴物語」といった

リメイク作品のヒロインを演じて大映

ドル箱スターとしての務めも果たし

1955年には再び溝口健二監督に起用され

楊貴妃」で題名役を主演

安禄山という軍人の出世の道具として

唐の玄宗皇帝に王妃として差し出され

叛乱の犠牲となって刑場の露と消える

いわゆる傾国の美女という大役だった

 

(映画「春琴物語」より)

 

次いで長谷川一夫が戦前の1939年に

入江たか子と共演して評判となった

藤十郎の恋」のリメイクに再び主演の

長谷川一夫と組んで、これは伝法肌

恋を得意としてきたそれまでの彼女を

抑えて女心の細やかさを好演し

長谷川との呼吸もピッタリと合って

古風だが厳しい男女の悲愁美を描き出した

 

長年疎遠となっていた父とアメリカで再会

 

このあと「新女性問答」(1955年)に主演

盲馬車と言われるほど映画ひとすじで

自ら社交下手、出不精と言っていたが

同年8月、ヨーロッパへ旅立つ

楊貴妃」が出品された第16回ヴェネツィア

国際映画祭に出席するためと、アメリカで

瞼の父・石田治三郎と会うためだった

 

父の消息は終戦後、その妹・清子の調べで

ブラジルのサンパウロ市に

住んでいることがわかり

父を名乗って吹き込んだレコードが

京マチ子のもとへ送られてきたのを

きっかけに父娘の間で文通が交わされ

1951年には"銀幕で親娘の対面"という

見出しで、彼女が出演したブラジル帰りの

「遙かなり母の国」を見て涙したことを

報じたサンパウロの邦字新聞

パウリスタ」の3歳の彼女を抱いて

うつした父の写真入りの記事が「毎日新聞」に

掲載され、また1952年にはウルグアイ

映画祭出席のため南米へ飛んだ大映常務

取締役・松山英夫に彼女が父への

みやげものを託すといういきさつがあった

 

父はサンパウロ市ボスケ区に刺繍工芸家

として洋品店を営み、新しい妻との間に

3人の子どもをもうけ、この1955年には

63歳となっていた

 

ハリウッド映画出演のオファーを受け快諾

 

楊貴妃」は受賞の対象にならなかったが

映画祭終了後にヨーロッパ各国を旅して

ニューヨークへ飛び、サンパウロから

駆けつけた父とホテルで27年ぶりに対面

1週間をともに過ごしてロサンゼルスへも同行

その後彼女は帰国するが、このニューヨーク

滞在中にMGMから企画中の「八月十五夜の茶屋」

に主演のマーロン・ブランドの相手役として

出演を申し込まれる

 

ブランドや共演のグレン・フォードにも会い

熱心にすすめられ、同年日本ロケの下調べに

来日したプロデューサー、ジャック・カミングズ

監督ダニエル・マン大映社長・永田雅一

立ち合いで出演が決まる

 

1956年に溝口健二監督の遺作となった

「赤線地帯」に黒人兵の売春婦の役で

木暮実千代若尾文子などと共演したあと

「八月十五夜の茶屋」の奈良県

生駒ロケに参加する

 

(映画「赤線地帯」より。いちばん右が京マチ子

 

悪天候のため撮影は1か月で中止

ハリウッドで撮り直すことになり

彼女も2か月渡米する

 

(映画「八月十五夜の茶屋」のロケ先にてM・ブランドとG・フォードに囲まれて)

 

1957年封切りのこの映画は

ブロードウェーのヒット・プレイの

映画化で、沖縄を舞台に民主化政策を

すすめるアメリカ占領軍と住民のズレを

沖縄色や日本趣味を大胆に取り入れて

描いた痛快で皮肉の効いた風刺喜劇で

彼女の役は村の救世主に祭り上げられた

グレン・フォード扮する大尉の

贈り物として捧げられる芸者ガールで

白地に紺の縦縞がくっきりの着物に

目にも鮮やかな橙色の帯をきりりと締め

絹の日傘を肩にしてロータス・ブロッサム

(蓮の花)という役名ピッタリのあで姿で登場

お色気つきの大サービスで真面目な大尉を

辟易させるという愉快な女

堂々たる貫禄と溢れんばかりのお色気で

まさに適役と評価された

 

これは彼女にとっては初めての喜劇映画で

停滞気味の彼女の突破口となったが

そうした彼女の新生面を開こうと大映

躍起となり、永田社長が自分で見て

彼女を主演に製作を命じた御園座

「名古屋おどり」に上演の北條秀司の

新作舞踊劇「いとはん」の映画化

「いとはん物語」(1957年、伊藤大輔監督)

では大阪の材木問屋の長女で

心は美しいのだが2人の妹とは似ても

似つかぬ不器用な醜女という役を主演

 

社長以下、首脳部総動員でメイクアップに

苦心し、粋な日本髪に黒じゅすかけた

黄八丈の着物という出で立ちながら

ゲジゲジ眉毛に団子鼻、自分の歯の前に

義歯をつけて反っ歯にし、口には

含み綿という顔を作り上げ、母親からは

鶴田浩二扮する美男の番頭を婿にと

言われて喜ぶが、番頭は女中と将来を

約束しているとわかって醜女なるが故に

恋を諦めなければならない哀れな女を演じ

彼女は演技派女優としての自信を

身につけての好演と誉められた

 

メディアに新しい演技を求められるが応えられず

 

しかし、その後の企画は彼女の魅力を

より一層引き出し、芸域を広げるといった

機会にはめぐり合えず、この1957年は

「八月十五夜の茶屋」の成功が

あまりにも印象的だったせいもあって

"岐路に立つ女優"などと言われ

後輩の山本富士子の急成長ぶりと

とかく対比されたりした

 

山本富士子吉村公三郎監督「夜の河」と

市川崑監督「日本橋」(1956)の2作で

大女優としての風格を身につけ

人気は京マチ子を凌ぐものさえあったが

吉村公三郎監督の「夜の蝶」で2人は

競演ということになる

 

銀座の一流バーのマダムの男がらみの

激しい商売合戦を描いたもので

京マチ子の傲慢なマダムはメロドラマ的

ではあったが派手な大芝居もあって

おもしろい役だったが、批評家からは

山本富士子に完敗と言われ、次の

市川崑監督との初顔合わせ「穴」(1957年)

では銀行マンの横領事件に巻き込まれた

美人記者に扮し、知性もあれば気風もいい

という女スーパーマン的なヒロインを

演じたがコミック・スリラーとしては

不消化で、彼女の魅力を増幅したとは

いえなかった

 

衣笠貞之助監督作品で持ち味を発揮

 

1958年に30年ぶりにアメリカから帰国した

移民の花嫁の財産をめぐる家族の

醜い争いを描いた新藤兼人監督の力作

「悲しみは女だけに」に、主演は田中絹代

だったが彼女の姪で夫が戦死したあと

男から男への荒らんだ生活をしてきた

気性の激しい女の役で熱演型の本領を

発揮し衣笠貞之助監督の大阪の芸人社会を

背景にした人情物「大阪の女」では主役の

元・漫才師の娘で底抜けのお人好しに

庶民性をにじませ、1つの持ち味を見せた

 

しかし、依然として彼女の新しい魅力を

引き出す作品に乏しく"グランプリ女優の

限界?""危機に立つ女優"などと芸能

ジャーナリスムの関心の対象であり続ける

続編へと続く

 

参照:

キネマ旬報社:日本映画俳優全集・女優編