昭和寅次郎の昭和レトロブログ

昭和を知らない世代による昭和レトロ、昭和芸能のブログです!

祝・生誕100年!シャンソンの女王・越路吹雪さん!(前編)~だれにも媚びず枠にはまらない生き方~

 

2月18日で越路吹雪さんが生誕100年!

 

今年生誕100年を迎える越路吹雪さんを

今回詳しく取り上げることにしました

それは職場での認知度が低いことから

今一度コーチャンの功績や魅力

生き方に迫ろうと思い、書かなければ

忘れられてしまうという危機感から

取りあげることにしました

 

それでは早速プロフィールから

 

越路吹雪プロフィール

 

 

転勤が多かった幼少期

 

越路吹雪(本名:内藤美保)は

1924年2月18日に東京市麹町区麹町に生まれた

 

 

父の仕事の関係で転勤が多く

新潟に住んでいた1936年

長野県立飯山高等女学校に進み

寄宿舎生活に入る

 

 

学校でも宝塚でも落ちこぼれ

 

小学生のころから学校が嫌いで

体温計を陽に当てて「熱がある」と訴え

学校をサボり、家のなかで歌ったり

踊ったりしていた

 

そんな彼女を見ていた父のすすめで

1937年に学校を中退して宝塚音楽歌劇学校に入る

1939年には宝塚歌劇団の一員として

越路吹雪を芸名に宝塚大劇場

「宝塚花物語」で初舞台を踏んだ

可愛らしい稚児の役だった

 



 

同期に月丘夢路乙羽信子らがいるが

勉強家の2人に引き換え、もっぱら遊ぶことと

食べることに精力を集中

大柄のうえに音域も広く男役として

期待されるが、元来、のん気な性分で

人を押しのけてまで出世しようという

気もなかった

 

 

しかし、久慈あさみ淡島千景らが

大役を振り当てられるようになると

やっと欲が出てきて勉強に身を

入れるようになる

 

1942年「ピノチオ」で「チョコレートの兵隊」を

初めてのソロで歌い、翌年の「母なる仏塔」に

義賊の役で初の主演を獲得

しかし、戦時下のため国策に沿った作品が

幅を利かせている時期でもあり

企画自体が精彩を欠いていたため

彼女の本領を発揮する場は

与えられなかった

 

宝塚の舞台で注目を集めるようになる

 

ただ、演出家の高木史朗によれば

航空母艦」(1943年)のときに

水平を演じた彼女が、艦内の演芸会の場面で

広沢虎造浪曲をうなり

あまりの見事さに観客はもちろん

スタッフも舌をまいたのが印象に残っているという

 

1944年、戦争の激化で大劇場は閉鎖

彼女たちは移動慰問隊に駆り出されやがて終戦

 

1946年には大劇場の公演が再開

映画、風俗、文化と同じく

宝塚もまた急激にアメリカナイズされジャズが解禁

 

終戦とともに更なる高みへ

 

この時代の変化は彼女にとって幸運だった

同年「メキシカーナ」のチポオ

ミモザの花」のアンドレの役で

はじめてジャズを歌い好評を得たことで

この大器はようやく目を覚ます

 

 

シャンソンもレパートリーに入れ

スケールの大きな容姿、演技、歌唱力を武器に

水を得た魚のごとく急成長

たちまち淡島千景久慈あさみ乙羽信子らとともに

スターダムにのし上がった

 

代表作としては1949年の「ブギウギ巴里」の

ブギの歌手が特に知られているが

グラナダの薔薇」の王子

「赤頭巾と王子」の王子

「センチメンタル・ヂャアニー」(1946年)

のビル、「ファイン・ロマンス」のアルマン

「マノン・レスコオ」(1947年)のファビアン

「レインボーの歌」のトミー

「ハリウッドに栄光あれ」のエルマー

「再び君が胸に」(1948年)のコルナー

ハムレット」のハムレット

「想ひ出の薔薇」のルネ、「カルメン」のカルメン

「懐しのアリゾナ」(1949年)のリューク

「モナミ」(1950年)のマルセルなどを演じて

人気を絶大なものにして

彼女が颯爽と舞台に現れるや「コーチャン!」

の掛け声が場内に響いた

 

1950年に娘役に限界を感じたとの理由で

淡島千景が退団して松竹に入り

続いて乙羽信子大映

久慈あさみが新東宝にと、人気スターが

映画界に転身

 

越路も待遇の不満と閉鎖的な宝塚では

芸術意欲を満足できないと

退団の意思を表明する

 

1950年、宝塚は相次ぐスターの退団を

阻止するために慰留策として

在籍のまま外部出演を許可するという

フリー契約を実施

 

東宝映画で銀幕デビュー

 

彼女は東宝の「東京の門」(1950年)で

念願の映画初出演を果たす

銀座で小新聞を発行する主人公の役だったが

デビュー作で騒がれたわりには

役そのものに派手さがなく

続く女探偵に扮した「エノケン天一坊」も

成功作とはいえなかった

 

1951年、かねてからミュージカルの上演を

企画していた帝国劇場社長で

プロデューサーの泰豊吉に請われ

帝劇ミュージカル第一回公演

「モルガンお雪」(菊田一夫・作)で

ヒロインのお雪に扮し、古川緑波

森繁久彌を相手に堂々たる主演で好評を得

ミュージカルスターとして

輝かしいスタートを切った

 

「マダム貞奴」出演中に、1937年以来15年間の

宝塚生活にピリオドを打ち

東宝と専属契約

 

映画には同年「哀愁の夜」で恋に悩む

歌手に扮して主演

 

以来、出演作は50本を超え

市川崑監督には度々起用され

印象的な作品も多く「結婚行進曲」

(1951年)では本人の役で

ゲスト出演だったが

「足にさわった女」(1952年)では

ヒロインの女スリを都会的なスマートさを

活かして軽妙に演じ、「プーさん」

(1953年)では主人公の伊藤雄之助

惚れる頑固な娘、「愛人」(1953年)では

舞踏家、「ぼんち」(1960年)では

足袋問屋の若旦那(市川雷蔵)の妾を好演

 

(「愛人」で岡田茉莉子(左)と有馬稲子(右)と)

 

ほかにマキノ雅弘監督の「次郎長三国志

九部作(1952~1954年)の第6、7、8部に

小松村の七五郎(山本廉)の

男まさりの女房お園を快演

 

同じくマキノ監督の「一本刀土俵入」

(1957年)ではお蔦に扮し加藤大介と共演

岡本喜八監督のミュージカル・コメディ

ああ爆弾」(1964年)では落ち目のやくざの

親分の宗教狂いの女房をコミカルに演じた

 

いずれにせよ「社長」シリーズや

サラリーマン喜劇などの軽い作品の

準主演および助演作が多く

彼女のいちばんの活躍の場は

舞台だといえよう

 

越路吹雪さんの魅力(人として)

 

越路さんの人間的魅力は

雲の上にいるような

私たち一般人とはかけ離れた

才能とカリスマ性を持ちながらも

どこか人間臭くて

私たちに近くて親しみやすい

魅力も持った方だと思っています

 

大スターでありながら

学校時代は勉強が大の苦手で

宝塚時代も成績が悪かった

というエピソードなどを知ると

何だかホッとします

 

それにだれにも媚びない生き方にも

尊敬の気持ちを抱かずにはいられません

 

プロフィールにも書いていますが

人を押しのけて上に立とうという

そのような気持ちもなかった

いい意味で欲がなかった

こういったっ部分に好感が持てるのです

 

枠にはまらない生き方

 

越路吹雪さんは宝塚の掲げていた

「清く・正しく・美しく」という

スローガンに収まらない魅力と

生き方をされていたことにも

感心してしまいます

 

学校でも宝塚でも成績が悪く

嫌いなことは勉強せず

でも歌とダンスは大好きで

ステージに立つと観客を魅了してしまう

このような我流の生き方で

よくやっていけたなと思います

 

当時の宝塚はまだ寛大なところが

あったのでしょうか

 

越路さんの思うがままに

育ててくださったご両親と

当時の宝塚の方もすばらしいですね

 

参照:

キネマ旬報社『日本映画俳優全集・女優編』

江森陽弘著『越路吹雪その愛と歌と死』

 

なおこの記事は後編へと続きます

 

shouwatorajirou.com