昭和寅次郎の昭和レトロブログ

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昭和女優ファイル東宝編②高峰秀子(少女スター時代)~少女スターとしてP・C・Lと東宝で活躍~

 

前回の子役時代からの続きです

 

shouwatorajirou.com

 

ここでは高峰さんが子役から

少女スターとして活躍された時代に

迫っていきます

 

プロフィール(前回の続き)

 

(映画「馬」より)

 

少女ながら身内に収入をあてにされるも映画には恵まれる

 

1936年1月、松竹は撮影所を蒲田から

新設の大船へ移す

秀子は12歳で子役から娘役への転換期

という難しい時期にあって

役に恵まれなかったが

五所平之助監督のメロドラマ大作

「新道」前後編(1936年)に大幹部女優

田中絹代扮するヒロインの妹で

姉の恋愛を応援する狂言回し的な大役に

抜擢されるとともに、田中絹代に実の

妹のように可愛がられ、新築間もない

"絹代御殿"に泊まり込んで

撮影所通いをしたりする

 

しかし実生活では、秀子の兄に続いて

1934年の函館の大火で財産を失った祖父の

力松一家7人が月給60円の彼女を頼りに

転がり込んできて、千駄ヶ谷に一戸を借りて

住まわせたものの彼女の肩に9人の生活が

かかることになる

 

幸い「新道」での彼女の評判はよく

続いて五所平之助監督のの「花籠の歌」

(1937年)にも出演した

 

松竹からP・C・Lに移籍する

 

このころ翌年3月の小学校卒業をひかえ

女学校へ進みたかったが経済的にも

余裕のあるはずはなく、撮影所もあまり

好きではないと、宝塚少女歌劇団

入ろうと決心し、旧知の花柳章太郎に相談する

花柳から水谷八重子を紹介され

彼女が宝塚音楽歌劇学校の校長・

小林一三に話してくれて無試験で

入学を許可するという返事をもらう

 

ところが1937年早々、P・C・L製作部企画課の

藤本真澄が訪ねて来て引き抜き交渉を受け、

事態は別の方向へ進む

 

藤本は前に明治製菓宣伝課に居て

松竹とタイアップ宣伝を盛んにやり

秀子を明治製菓の宣伝写真を撮っていて

顔なじみだった

 

引き抜きの条件は月給百円と撮影所近くの

成城に住宅を提供するというもので

秀子が宝塚入りがきまっていた

気が進まなかったものの女学校へ

入れてくれるならという条件を出して

承諾、松竹へ辞表を出して退社

P・C・Lへ入社した

 

藤本は月給百円では女学校へも行けまいと

明治製菓とモデルの話をつけて別に

月額百円ほどの収入が入るよう

計らってくれた

 

撮影所は明るくモダンで

所内の雰囲気も開放的

 

最年少の彼女は岩井明がつけた"デコ"の

愛称でたちまちペット的存在となる

 

入社第一回出演は吉屋信子・原作で

山本嘉次郎監督の「良人の貞操」前後編で

入江たか子と共演の千葉早智子扮する

邦子の妹の役だった

 

この撮影の合間にP・C・Lは約束通り

女学校へ入れてくれるが、これまた進歩的で

開放的な神田の文化学院であった

 

ついで朝日新聞連載漫画の映画化

「江戸っ子健ちゃん」が(1937年)に出演

榎本健一の一人息子・鍈一、当時2歳8か月の

中村メイコエノケンとも共演する

 

代表的な主演映画に出会う

 

1937年9月にP・C・Lは東宝映画となり

翌年に彼女は15歳の無名の少女・豊田正子

書いてベストセラーとなった生活綴方集

「綴方教室」の山本嘉次郎監督による

同名映画化に主役の正子に抜擢される

父・由五郎が徳川夢声、母お雪が清川虹子

小学校の担任で綴方の指導者・大木先生が

滝沢修という配役で、秀子は長屋暮らしの

貧しいブリキ職人の小学校6年生に扮し

雑誌「赤い鳥」にまで載るほど作文が

上手くなり。周囲の人たちの生活を

率直に書いて物議をかもしたりするが

貧乏ななかにも明るく強く生きる少女を

自然に生き生きと演じて最初の代表作とし

未来の大女優の片鱗をもうかがわせた

 

これをきっかけに彼女を主役にした作品が

「虹たつ丘」(1938年、大谷俊夫監督)

「娘の願ひは唯一つ」(斎藤寅次郎監督)

「花つみ日記」(1939年、石田民三監督)とつくられ

この間「美しき出発」(山本薩夫監督)に

原節子と、「頬白先生」(阿部豊監督)に古川緑波

樋口一葉」(1939年、並木鏡太郎監督)に

山田五十鈴と共演するなどして売れっ子となり

忠臣蔵」(1939年)まで駆り出され

先輩の堤真佐子、竹久千恵子、原節子

一力茶屋の仲居の役で出演

 

(映画「花つみ日記」より)

 

1939年は結局9本にも出演したが

こうなっては文化学院への登校も

月に2、3日となり、同年、婦人運動の

先駆者で文化学院の創立にも参加して

有名な担任教師・河崎なつに親娘で

呼び出されて勧告を受け、入学一年半にして

退学を余儀なくされる

 

しかし東宝ではすっかり売れっ子となり

1940年には「秀子の応援団長」(千葉泰樹監督)

「そよ風父と共に」(山本薩夫監督)

「姉の出生」(近藤勝彦監督)

「釣鐘草」(石田民三監督)に次々と出演

 

「秀子の応援団長」では灰田勝彦の野球選手に

想いを寄せるといった、まだ思春期の

少女の役だが大人の役へのステップとし

主題歌「燦めく星座」を灰田と歌う

 

(映画「秀子の応援団長」より)

 

この主題歌は映画封切り後

灰田がビクターレコードに吹き込み

大ヒットしてたちまち女性ファンの

アイドルとなったが、秀子も発奮して

本格的に歌を発生から学ぼうと

声楽家の奥田良三と長門美保に師事して

特訓を受ける

 

このこともふくめてこの1940年は

彼女は女優として生きることに

はじめてファイトを燃やすのだが

それを促した最大のものは東宝と提携する

東京発声の豊田四郎監督「小島の春」

(1940年)に菅井一郎のハンセン病患者の妻と

自分も”桃畑の女"というハンセン病患者の二役を

演じた杉村春子の素晴らしい演技に

接したことで秀子は電撃的なショックに

うたれたことをのちに告白している

 

1941年「綴方教室」に続いて

秀子を主演に山持嘉次郎が監督した

「馬」が封切られる

 

東北の馬産地を舞台に馬の好きな少女が

生まれた仔馬をくれるというので

他家から妊娠馬を預かり心血を注いで

世話したかいがあって無事に仔馬が生まれるが

貧しい父の借金のため仔馬は売られ

自ら紡績女工となって仔馬を買い戻し

二歳駒に成長した愛馬との別れは悲しいが

晴れて軍馬として送り出すという

少女の馬に寄せる崇高といってよい

愛情と苦闘、四季折々の風景のなかで

ドラマティックに描き上げた感動篇で

秀子は少女いねを出色の出来で好演

 

(映画「馬」より)

 

「綴方教室」はキネ旬ベストテン5位だったが

「馬」は2位に選ばれ面目をほどこした

 

黒澤明監督に恋心を抱くも叶わず

 

撮影は1939年から開始され、完成まで

足かけ3年を要したが、彼女は岩手県のロケ地で

この映画の脚本に協力し、チーフ助監督と

B班監督を務めた黒澤明に純真な恋心を抱き

「馬」の完成後、黒澤の仕事部屋を

訪れたりしたが、養母をはじめ周囲に仲を

引き裂かれ、この恋は実らなかった

 

「妻よ薔薇のやうに」(1935年)で

ベストワン監督となった成瀬巳喜男にも

起用され、「秀子の車掌さん」(1941年)に

主演したが、同年12月に太平洋戦争が

始まり映画の戦時色もいっそう強まり

彼女も「阿片戦争」(1943年、マキノ雅弘監督)

原節子と姉妹の中国娘、「北の三人」

(1945年、佐伯清監督)で再び原節子

組んで女子通信兵を演じたが、彼女の

明るいキャラクターから出演作品も

戦時下では明るい作品が多かった

 

(映画「秀子の車掌さんより」)

 

1945年はじめ、山本嘉次郎監督

アメリカようそろ」に入江たか子扮する

海軍将校の未亡人の娘の役で出演

することになりロケ地の千葉県館山へ

行くが航空隊基地のそばとあって

空襲で撮影どころではなく、たまたま

洲崎航空隊へ東宝慰問団に加わって出かけた

8月15日、終戦となり、特攻隊員を扱った

アメリカようそろ」はもちろん

製作中止となる

 

参照:

キネマ旬報社『日本映画俳優全集・女優編』

 

なおこの記事は続編へと続きます

 

 

 

 

 

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