前回からの続きです
作品で活躍した時代から
エッセイストとしても活躍した
時代にも焦点をあてます
高峰秀子プロフィール(続き)
成瀬巳喜男監督作品の名作に立て続けに出演
成瀬巳喜男監督では「妻の心」で人が好く
女遊びだけは好きな無能な夫をよそに
さびれた嫁ぎ先の楽屋を何とか
盛り返そうと、女手一つ頑張る芯の強い
嫁を演じ、「流れる」(1956年)では
花柳界の水に合わず、内職のミシンを
踏み続ける素人娘を、「あらくれ」
相手役に、生まれつき気が強くて
荒々しいが男の情にほだされやすく
次々と結婚して男に尽くす、無教養なるが故に
逞しい生活力を持った女主人公を力演
「女が階段を上る時」では、夫に死なれて
銀座の高給バーの雇われマダムになったものの
若い娘のように体も張れず、したがって
パトロンもつかず、肉親からの鐘の無心に悩み
体を壊し、男に裏切られ、それでも毎夜
バーの階段を上って生きてゆかねばならない
夜の蝶の哀しさを演じた
という姑や小姑にはさまれて難しい立場の女
「妻として女として」(1961年)では
張り合って敗れる二号さんで本妻名義の
バーの雇われマダムを熱演
「女の座」(1962年)では小姑の多い
荒物屋の長男の嫁で夫に死なれ
1人息子の成長を唯一の生きがいに生きる
未亡人と、成瀬が執拗に追い続ける日本の
家族制度のなかでの嫁や、社会の荒波に
抗して生きる水商売の女を演じ続け
さらに成瀬が彼自身としては6度目
秀子を主演にして「放浪記」(1962年)を
撮り、秀子は行商人として各地を歩き
東京でカフェの女給をやりながら詩を書いて
文壇にデビューする若き日の林芙美子を演じた
「女の歴史」(1963年)では戦争で夫を失い
1人息子もキャバレーの女の子を妊娠させた
まま事故で死ぬという美容院経営者
「乱れる」(1964年)では夫と死別し
子どももいないという他人のような亡夫の
家の酒屋を切り盛りし、彼女に純粋な
慕情を寄せる亡夫の弟(加山雄三)の心を
知りながら店を譲り渡して去ってゆく嫁を
女の哀しさを厳しさのなかに秘めて好演
「ひき逃げ」(1966年)では子どもを
轢き殺した真犯人の会社重役の夫人に
復讐しようと、この家に女中として
入り込むが自分をも滅ぼしてしまう
未亡人を演じ、「浮雲」以後、成瀬が
監督した19本のうち12本に出演
さらにそのうち「流れる」を除く11本に
主演するという例のない名コンビぶりを
見せ、自らの演技を深化させた
木下恵介作品でも活躍を見せる
一方、木下恵介監督では「遠い雲」(1955年)
のあと、燈台守夫婦の哀歓を美しく
うたい上げた「喜びも悲しみも幾年月」(1957年)
に佐田啓二と組んで主演して大ヒットを
飛ばし、「あらくれ」とこの演技で
毎日映画コンクール女優主演賞を受賞
木下得意の風刺喜劇「風前の灯」(1957年)では
欲張り一家の強欲婆さんの小金を狙う
息子夫婦を佐田啓二と演じ、戦国時代の貧農の
五代にわたる歴史を描いた野心的叙事詩
組んで戦乱に巻き込まれて過酷な運命に
見舞われる純朴な農民夫婦に扮し
彼女は18歳から85歳の老け役まで
驚嘆すべきメイク・アップと発声の
工夫により見事に演じた
木下作品ではさらに「永遠の人」(1961年)で
初恋の男(佐田啓二)がいたのに
大地主の息子(仲代達矢)に犯されて結婚
3人の子どもを産みながら初恋の男を
忘れられず苦しみ続ける阿蘇の女に扮して
20歳から49歳までを演じ分け。
「二人で歩いた幾春秋」(1962年)でも
佐田啓二と組んで道路工夫夫婦の半生を演じ
木下の年代記映画のヒロインとして
活躍を続けた
この間には、野村芳太郎監督「張込み」
(1958年)では、殺人を犯して立ち回った
昔の愛人(田村高廣)と、厳重な刑事の
張込みの裏をかいて密会し、普段は1日
100円の生活費で黙々と家事に従う
銀行員の後妻でありながら、そのどこかに
ひそんでいたかと思われるほど激しい情熱で
男に連れて逃げくれと迫る、それだけに
哀れな人妻を抑えた演技で痛切に演じた
では三船敏郎の松五郎にほのかな慕情を
寄せられる未亡人を好演した
夫・松山善三の監督作品での難役も好演
夫の松山善三は1961年に「名もなく貧しく
美しく」で監督に進出
聾啞者同士の結婚という困難な道を選んだ
若夫婦の戦争末期から戦後にかけての
生活を描いた愛と感動の物語で、彼女は
小林桂樹と夫婦に扮し、全篇を手話による
会話で通すという難役を抜群の演技力で
演じのけ、感銘深い夫婦像を描き出した
これで芸術選奨に選ばれるとともに
「永遠の人」とあわせて4度目の毎日映画
コンクール女優主演賞を獲得
その後も松山が監督した「山河あり」に
田村高廣と、「ぶらりぶらり物語」(1962年)
「われ一粒の麦なれど」(1964年)
「六條ゆきやま」(1965年)「続名もなく
貧しく美しく・父と子」(1967年)に
小林桂樹と組んで主演、それぞれに
感銘を残した
1963年以後、映画出演はめっきり減ったが
市川雷蔵の医師・青洲の母・於雀に扮して
娘の役の若尾文子と姑、嫁の葛藤を展開し
久しぶりに田村高廣と夫婦役を復活
森繁久彌扮する"恍惚の老人"となった男を
献身的に世話する嫁を好演
TVから9年ぶりに映画に帰って来た
木下恵介監督にも早速起用され
「スリランカの愛と別れ」(1976年)に
不幸な過去を持ったスリランカの
宝石商の老未亡人を演じ、木下の社会
ドラマ「衝動殺人・息子よ」(1979年)
では若山富三郎と夫婦役で、理由なき
殺人の犠牲となった結婚直前の一人息子の
死を無駄にしまいと被害者遺族の保護
法案の実現に奔走する母を情感豊かに
力強く演じ、50年に及ぶ女優としての
実力と貫禄を見せた
海外での受賞に「浮雲」で第3回東南アジア
映画祭(1956年)最優秀女優賞
「名もなく貧しく美しく」で第17回ロカルノ
映画祭(1964年)で最優秀女優賞がある
TV界・舞台業にも進出
TVも1968年のTBS「東芝日曜劇場/浮かれ猫」
(松山善三・脚本)に初出演以来「日曜劇場」
の「簪マチ子」「君は今どこにいるの」
(1968年)「一筆啓上致します」(1971年)
や連続物ではフジ「おしくらまんじゅう」
(1968)、日本テレビ「ささらもさら」
(1973年)などに出演
1976年のNETに時間ドラマ「落日燃ゆ」では
コーナー(1970年)の司会を務めた
また舞台は1972年の有吉佐和子が翻訳に
関係した新宿・紀伊国屋ホールでの
反戦劇「ケイトンズヴィル事件の九人」に出演
エッセイストとして類まれなる才能を発揮
さらにはエッセイストとしても活躍し
著書に「パリひとりある記」(1953年)
「まいまいつぶろ」(1955年)
「私のインタビュー」(1958年)
自伝「私の渡世日記」(1976年)
(1979年)などがあり
「私の渡世日記」は1976年の第25回日本
エッセイスト・クラブ賞を受賞し
その文才でも好著を多数残した
肺がんのため2010年に死去
1979年の「衝動殺人・息子よ」の大阪ロケ中
これを最後にと"女優廃業宣言"をして
この作品の映画出演となり、以後は主に
エッセイストとして文筆業が中心となる
2010年12月28日、肺がんのため
都内の病院で死去
86歳だった
子役出身に大女優はいないというジンクスを
打ち破り、50年間の女優活動で日本映画界に
残した功績は計り知れないほど大きく
エッセイなどの女優業以外の分野でも
活躍したのは称賛するよりほかない
参照:
キネマ旬報社『日本映画俳優全集・女優編』
なおこの記事は最終回へと続きます