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昭和女優ファイルフリー編②乙羽信子~タカラジェンヌとして人気者となり映画界へ~

 

乙羽信子さんも今年で生誕100年!

 

今年は生誕100年を迎えた歌手・女優さんを

これまで越路吹雪さん、淡島千景さん

高峰秀子さん、京マチ子さんと

紹介してきましたが、さらにもう1人

乙羽信子さんも生誕100年を迎えるのです!

 

生誕100年ラッシュですね、今年は!

 

ということで今回は乙羽信子さんの

生い立ちから宝塚入学から退団

映画界入りまでのキャリアを紹介します

 

乙羽信子プロフィール

 

 

饅頭屋の養女として育つ

 

乙羽信子(本名:新藤信子)は

1924年10月1日鳥取県西伯郡米子町

(現・米子市)西伯楽に生まれた

 

大阪市此花区今開町の魚問屋の長男を父に

米子の出身で大阪市花柳界

芸者をしていた母にして生まれ

まもなく実父に認知されて同家に

引き取られる

 

1926年、大阪市西区九条にノンキという

屋号の饅頭屋を営んでいた夫婦の養女に

もらわれ、義母と同じく、その生家の姓を

絶やさないためにと坂東姓となる

 

同居していた義母の母に実の孫のように

可愛がられ、やがて工場街である九条の

悪い空気が子どもの身体にさわっては

というこの義理の祖母の意見で漁師町の

兵庫県武庫郡本庄村深江(現・神戸市

東灘区深江)に彼女と移り、まもなく

義父母も引っ越してきて饅頭屋を続ける

 

義父の姉の影響から宝塚に興味を持つ

 

1931年、本庄小学校へ入学

その前後から花柳流の師匠について

日本舞踊を習い始め、小学校では唱歌が好きで

全国小学校唱歌コンクールにも出る

 

長唄の師匠で西宮で芸者置屋を開いていた

義父の姉が宝塚少女歌劇団のファン

だったことから、よく宝塚の公演に

連れて行ってくれ、いっせいに脚を上げる

ラインダンスに興味を奪われる

 

また近所に宝塚のスター葦原邦子の家があり

彼女のところへ行くファンが店の前を

通ったりしていた

 

周囲の後押しで宝塚に入る

 

そうした環境のなかで、天然パーマの髪に

大きな眼で和製テンプルちゃんなどと

いわれていた彼女に親戚や近所のおばさん

たちから宝塚へお入りよといった声が

かかり、1937年小学校を卒業するとき

神戸の県立高等女学校と宝塚音楽歌劇学校

とを受験し、女学校は落ちたが、宝塚に合格

同年4月に予科生として入校する

 

このときから父方の加治姓とする

宝塚の同期には越路吹雪月丘夢路

東郷晴子がいた

小夜福子葦原邦子の全盛時代のなかで

翌年、本科へ進み、1939年2月に卒業

研究家へ進むとともに宝塚少女歌劇団

(1940年より宝塚歌劇団)の生徒として

月組編入され、義母が信仰する金光教

の教師がつけた乙羽信子を芸名に

1939年からの宝塚大劇場公演「宝塚化物語

に端役の稚児で初舞台

 

卒業後に踏んだ舞台は戦時色の作品が中心だった

 

すでに戦時色が色濃く、宝塚の出し物にも

それが大きく反映、1941年も後半になると

「航空日本」とか「銃後の合唱」といった

ものばかりとなり、彼女がはじめて大きな

役がついたのも「小国民」という題で

初ちゃんという役だった

 

1941年に雪組に移り「東洋の宮殿」「弥栄」

などに出演するが、まもなく太平洋戦争の

開始で出し物は軍国蝶一辺倒となり

大劇場公演のほか陸軍病院や軍需工場慰問

にも出かける

 

大劇場では「みちのくの歌」(1943年)の

三女トミエ、「桜井の駅」の橋本社員

「翼の決戦」(1944年)の正雄と

このころは男役をやるが「戻り橋」(1942年)

では小百合の桜町公子が急病のため代役に

立ち。渡辺綱の春日屋八千代と共演

北野劇場での「連獅子」(1942年)では

鶴万亀子の代役で天津乙女の親獅子を演じて

認められる

 

1944年3月、大劇場は閉鎖

歌劇団は15班に分かれ、移動隊として各地を

慰問したり、あるいは挺身隊として工場へ

勤労奉仕に出かけるようになり。

ヅカガールの象徴だった緑の袴も禁止され

決戦服という名のモンペ姿に着替え

この間、彼女は1944年9~12月の満州公演に

参加したり、大劇場を宿舎として使用する

予科練の海軍宝塚分遣隊の慰問公演にも出る

 

この分遣隊にはのちの監督・新藤兼人

二等水兵として清掃班に勤務していた

 

終戦後は春日野八千代とのコンビで人気者に

 

やがて終戦

大劇場閉鎖後、宝塚は本拠地での公演は

近くの宝塚映画劇場を代替劇場として

細々と続けていたが、1945年9月1日

ここで雪組が戦後のトップを切って

「棒しぼり」と「勘平の死」で公演を開始

彼女は「勘平の死」に宝塚の星とか

永遠の二枚目と言われていた男役スター

春日野八千代の勘平の相手役お軽に

いち早く抜擢され、娘役として売り出す

きっかけをつかむ

 

1946年、戦後は占領軍が使用していた

大劇場が接収解除となり、ここでも雪組

トップを切って公演再開

「春のをどり」にあけみの役で再び

春日野八千代と共演

同年の「人魚姫」ではユリザの役で再び

春日野八千代とコンビを組み

絶妙のコンビが定着し、オカジの

ニックネームでファンの圧倒的な人気に

乗って「マヅルカ」のオリガ

「蝶々さん」の蝶々さん、「おもかげ」の

マッダレーナ、「ファイン・ロマンス」の

スペラータ姫と好調を続け、次の

「南の哀愁」ではヒロインのナイヤを主演

これは月組淡島千景も1か月後にやり

文字通りの競演になるとともに宝塚の

戦後第一期黄金時代の幕開けともなった

 

その後も春日野八千代とのコンビで

「山三と阿国」「リラの花咲く頃」(1947年)

シューベルトの愛人コロリイネ

「早春譜」の京人形、「アルルの女」の

ヴィヴェット、「銀之丞一番手柄」の直枝

「二つの顔」のガムボギ、「夜鶴双紙」の

お鮎、「アロハ・オエ」(1948年)のジョーン

ハムレット」のオフェリアを演じ

娘役として抜群の人気を得てこのあと

春日野八千代の病気休演でコンビは崩れるが

王昭君」で主役を務め、「高山右近

「懐しのアリゾナ」で神代錦と共演

春日野八千代が復帰して再びコンビを組み

「ウィンナ・ワルツ」(1949年)でヨハン・

シュトラウスの愛人テレーズを共演

 

翌1950年の「妖炎」では若者と乙女を

ホフマン物語」ではホフマンとステラを共演

さらに人気を高める

 

宝塚を退社して大映に入社

 

この公演の終了後、月組淡島千景歌劇団

反対を振り切って松竹へ入社

その直後、今度は乙羽の大映入社が新聞で

取り沙汰され、ヅカ・ファンに大きな

ショックを与える

 

今度も歌劇団が反対して、いったんは

あきらめるが、淡島千景と同じく彼女も

娘役に限界を感じたことと、戦争末期に

空襲で焼失した自宅を新築するための

借金返済という経済的理由から彼女も

大映入りの意思が強く、この間

帝劇公演に続く大劇場公演で春日野八千代

共演したあと歌劇団に辞表を提出

 

歌劇団は引き留め工作として姉妹会社の

東宝の「佐々木小次郎」に彼女の出演を

一方的に決めたりなどするが

彼女は大映と2年間の専属契約を結び

結局歌劇団大映のトップ会談が行われ

円満退社大映入社が決定

 

大映入社後に出演した映画は成功作とならず

 

彼女の大映入りを成功させたのは

前年、京マチ子を大阪松竹歌劇団から

引き抜いた大映の宣伝担当取締役・

企画本部長松山英夫で、官能型の京マチ子

対して純情型の乙羽信子は娘役として

キス・シーンなどはやらせないと言明

彼女の純情可憐さのシンボルとして

宝塚時代にもファンを魅了したえくぼを

「百万ドルのえくぼ」と称して売り出す

 

デビュー作は1950年、新藤兼人脚本

木村恵吾監督「処女峰」で、上原謙

青年社長に等しく想いを寄せる

それぞれ性格の違う金持ちの家の

三人姉妹のつつましい性格の真ん中の

娘に扮して轟夕起子、若山セツ子と共演した

 

無難なメロドラマの無難な役柄で

スタートしたわけだが、次の久松静児監督

「宮城広場」(1951年)も森雅之

主人公が敗戦の責任者である元首相で

侯爵の御曹子、しかも復員兵で

自動車を住居にしているというのが

変わっているだけで、官女はその恋人役だが

これも他愛のないメロドラマ

大映は彼女の引き抜きには成功したが

売り出しには失敗したとの印象を

まぬがれなかった

 

参照:

キネマ旬報社『日本映画俳優全集・女優編』を参照

 

なおこの記事は続編へと続きます

 

 

 

 

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