前回からの続きです
2回目となる今回は乙羽信子さんが
新藤兼人監督の作品で高評価を受け
監督の設立した近代映画協会に入り
女優として成長していった時期に迫ります
乙羽信子プロフィール(続き)
いい演技をしても映画は高評価を受けず
1951年に「処女峰」で映画デビューを飾り
同年「宮城広場」に出演した後は
小石栄一監督「暴夜物語」のキャバレーの
踊り子役で初めて主演を務め、続いて
「誰が私を裁くのか」では山小屋で出会った
男とゆきずりの関係を持ち、殺人罪に
問われた男のアリバイを立証するため
家庭が破壊されるのを覚悟で法廷に出るが
夫に家を追い出されたうえ、男が自ら
アリバイを主張しなかったのは婚約者に
秘密を知られたくない打算からだったと知り
すべてに裏切られる悲劇の人妻を演じた
この映画は熱演は認められたもの
批評は芳しくなかった
続く溝口健二監督「お遊さま」では主演の
田中絹代の妹に扮し、自分の見合い相手の
相手が姉に魅かれているのを知り
結婚はするが、姉と夫の恋の仲介役となり
名のみの妻に甘んじるという役を素直に
演じたが好演とまではいかず
助演だった
新藤兼人監督作品でようやく花ひらく
こうしたなかで彼女は主演作品で、本格的な
演技を要求される作品にようやくめぐりあう
新藤兼人の第一回監督「愛妻物語」(1951年)だ
これは新藤が戦争中の1943年に死別した
最初の妻・孝子との短かった生活を素材に
書いた私小説的なシナリオの映画化で
彼女が演じたヒロインは、父の反対を
押し切ってシナリオ・ライターの卵と結婚し
貧しさに耐えて愛する夫に尽くし抜く
気立てのいい若いしっかりもので
夫を助けるための内職の無理がたたって
結核のため死んでゆく女性である
裏店での夫婦生活ながら互いに愛し合い
信頼し合う姿を新藤は、みずみずしく
描き出して深い感動を与え、彼女は
相手役の宇野重吉以上の好演で賞賛され
地味な作品にもかかわらず興行的にも
水準以上の成績をあげ、このあと長く続く
新道=乙羽の最初の出発点を飾った
このあと新藤の脚本と吉村公三郎の
光源氏をめぐる女のひとり、可憐な
紫の上を好演
同じく新藤の脚本で安田公義監督の
「十六夜街道」(1951年)に大河内傅次郎の
やくざの顔役の娘、久松静児監督
「浅草紅団」に京マチ子の義理の妹の
浅草の踊り子を演じ、続く「雪崩」で
新藤兼人と二度目のコンビを組み
藤田進を相手役に、妻ある発電所の技師に
激しい恋心を抱きながら報われぬ
不良少女あがりの電気技師を熱演
(1952年)で、修道女のような諦めと
悟りの境地で精神薄弱者の夫に代わって
一家を取り仕切る男勝りの冷たい女・
田中絹代と対照的に、彼女の夫の異母弟で
放埓な男を夫にしながら、常に暖かい
雰囲気を崩さない、優しく美しい女性を好演
近い将来での演技派女優としての開花を期待される
しかし、デビュー以来彼女が抱き続けてきた
自分自身の女優像と、大映が彼女に期待する
イメージとにはかなりのギャップがあり
この1952年、彼女は「娘初恋ヤットン節」
への出演を拒否したりする
会社の反対を押し切って独立プロ作品に出演
同年、新藤兼人が初の自主制作として
「原爆の子」を企画する
もともと彼は1950年に作家の主体性確立を
旗印に吉村公三郎らと松竹を脱退して
近代映画協会を設立したものの独立
第一作を作れないままに大映と契約して
仕事をしてきたが、企業内ではやはり
作家の自由は貫けないことを痛感
劇団民藝の協力や労組のカンパを得て
ここにようやく第一回の自主作品を
送り出すことになったのである
これまでに二度、力いっぱい取り組める
役を新藤に与えられた乙羽信子は
この「原爆の子」(1952年)への出演を
希望、大映の反対を振り切って参加
これはアメリカ軍の占領中には触れることの
許されなかった原子爆弾の被害について
同年4月の対日平和条約発効にともなう
占領時代の終わりを見定めていち早く
取り上げたもので、被爆後7年たっても
後遺症に苦しむ人が大勢いることを訴えた
真剣なテーマの作品だった
彼女は広島の原爆で家族のすべてを失った
女教員・孝子に扮し、映画はかつて勤めていた
広島の幼稚園の園児たちを訪ね、そこで
原爆症に苦しむ様々な人々の悲惨な姿を
目にするという構成だったが、これに出演
することによって彼女は、宝塚の娘役から
大映の「百万ドルのえくぼ」という甘い
スターとしての歩みのなかでは
感じられなかった真剣な創造的な熱意に
初めて触れることができ、監督の新藤兼人も
また独立プロの自主製作という不安定な
仕事にスターの彼女が進んで参加して
くれたことに感銘を受けた
(映画「原爆の子」より)
大映を退社して近代映画協会へ
(1952年)に長谷川一夫の相手役を務めたが
同年の契約切れの際再契約を断り
娘役を演じたのを最後に大映を退社
同人として加わり、以後、新藤兼人と
公私両面にわたって同志的な結びつきを
深めていく
しかしこの独立プロ加入は創造的な作業に
参加する喜びは得られても経済的には
まったくマイナスである
同人として参加を申し入れたとき
近代映画協会からは「うちは貧乏だから
入ってきても経済的援助はしませんよ」と
すでに言われていた
宝塚をやめて大映に入った理由の一つは
住まいの新築費用もさることながら
歌劇団の2万円の月給だけでは
支えてゆくことに不安があったからだが
彼女が映画スターになったことで
安楽な生活ができるようになると期待した
養母とは、独立プロの苦しい生き方の
なかで溝を深めてゆくことにもなった
近代映画協会の作品で女優として成長していく
しかし、他社出演に経済的な裏付けを
求めながら野心的な企画を次々と打ち出す
近代映画協会のなかで、演技者としての
力量を大きく前進させる
まず新藤兼人の脚本、監督「縮図」(1953年)
これは貧しい娘が芸者となって各地を
転々とする物語で、芸者の世界のきれいごとの
うわべと残酷な裏面を仮借のないリアリズムで
暴露的に描いた力作で去り、乙羽信子は
これではじめてそれまでの可愛らしい
お嬢さんのポーズをかなぐり捨てた強烈な
リアリズム演技を見せた
またこれまで新藤作品ではつねに新劇の
ベテラン俳優・宇野重吉と共演したが
宇野からは宝塚的な舞台でいいポーズを
とって見せる演技とは違うリアリズム
演技を教わった
(映画「縮図」より)
「縮図」に続いて新藤脚本、吉村公三郎
監督の「慾望」と「夜明け前」に出演
「慾望」では未帰還兵の夫を待つ主人公・
水戸光子の女学校時代の友達で人の好い
お妾の役で助演
「夜明け前」では滝沢修が演じた主人公・
青山半蔵の娘の役で、古風なしっかりものの
旧家の娘を堅実に演じ、風格ゆたかなこの
大作にしめくくりを与えた
(映画「夜明け前」より)
また新藤の脚本、監督「女の一生」(1953年)
では「縮図」に続いてしいたげられた女の
悪戦苦闘の生涯を演じ、それまでスター女優が
演じたことのない、妊娠した大きなお腹を
抱えたまま家のなかを闊歩したり
分娩時の歪んだ醜い顔を見せたりして
観客にショックを与え、これと「縮図」
「慾望」によって1953年度ブル・ーリボン
女優主演賞を受け、演技派女優としての
地位を固めた
参照:
キネマ旬報社『日本映画俳優全集・女優編』
なおこの記事は続編へと続きます