昭和寅次郎の昭和レトロブログ

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昭和女優ファイル東宝編②高峰秀子(子役時代)~天才子役として振り回された少女時代~

 

今年で生誕100年!日本が誇る大女優・高峰秀子さん!

 

今回は子役から少女スター

日本映画界を代表する大女優へと成長し

女優氷引退後は主に随筆家としても

活躍された昭和の大スター

高峰秀子さんを紹介します

 

高峰さんはあまりに大きな存在なので

何回かに分けて紹介します

少女時代から波乱万丈の人生です!

 

ちなみに今年で生誕100年を迎え

特設サイトも立ち上がっており

主に東京で行われるイベント情報などが

掲載されています

 

www.takamine-hideko.jp

 

高峰秀子プロフィール

 

 

幼少期から波乱万丈な人生

 

高峰秀子(本名:松山秀子)は

1924年3月27日に北海道函館市に生まれた

 

函館でマルヒラ・カフェー

蕎麦屋料亭マルヒラ砂場、マルヒラ劇場を

経営していた土地の実力者・平山力松の

長男・錦司とその妻・イソの長女で

兄三人、弟1人がいた

 

4歳のとき母が結核で死亡したため

かねて秀子を養女にと望み

名づけ親にもなった父の妹の

志げにもらわれる

 

志げは秀子の生まれる前

函館に来た流れものの活動弁士

荻野市治と駆け落ちして結婚

自分も高峰秀子の名で女活弁士と

なったが、のち2人とも活弁を廃業

 

当時は東京市下谷区谷中の鶯谷

二階借りし、荻野が旅回りの一座の

興行ブローカとなってほとんど家を留守に

していたので、志げが内職の針仕事で

生計を立てていた

 

子役オーディションの場に偶然行くと…

 

近所に末松源七という松竹蒲田撮影所の

俳優部屋の小使いがいて蒲田の老け役

野寺正一と親しく、野寺の案内で養父が

蒲田撮影所を見学することになり

秀子も養父におぶわれていく

 

その日は鶴見祐輔の「婦人倶楽部」

連載小説「母」の映画化に際して

募集した子役の審査があり

60人ほどの女の子が来ていて

養父によって飛び入り参加した秀子は

この映画の監督で審査員野村芳亭に

思いがけなくも選び出され

ヒロインの母を演じる川田芳子の5歳の

娘で妹の小藤田正一の妹の春子という

役で出ることになり

1929年10月に松竹蒲田に入社

義母が昔の女活弁時代の芸名を

そのままつけて高峰秀子を名乗る

 

松竹から子役として華々しくデビュー

 

「母」はその年の12月に封切られ

松竹蒲田お得意の母もの映画の

佳作として浅草では45日間という空前の

ロングランで大ヒット

秀子はおかっぱ姿も可愛らしく

デビューに成功する

初任給は35円でまもなく養父母と

撮影所の近くへ転居する

 

「母」より)

 

当時蒲田には女の子役として

高尾光子(14歳)を筆頭に

藤田房子(13歳)と陽子(11歳)が

活躍していたが、いずれも子役としては

いささか成長しすぎていたため

5歳の秀子はたちまち重宝がられ

五所平之助監督の「大東京の一角」

岩田祐吉主演の「父」(1930年)

島津保次郎監督の前後篇の大作

「愛よ人類と共にあれ」

栗島すみ子と田中絹代の「姉妹」

小津安二郎監督の「東京の合唱」(1931年)

五所監督で林長二郎と川崎弘子が

顔を合わせた「不如帰」

(1932年)などに出演

 

(「大東京の一角」より)

 

「大東京の一角」でのようにときには

男の子の役もやらされ、スタッフから

"秀坊"のニックネームで呼ばれる

 

映画出演に追われて学校にはあまり行けず

 

1931年に蒲田尋常小学校へ入学するが

かけ持ち出演に追われて学校へ顔を出す

暇はほとんどなく、それでもクラスでは

人気抜群で4年生まで"不在"級長を務めた

 

スタジオでも逞しさを発揮

疲れると駄々をこねたり

狸寝入りを決め込んだりして

"ゴテ秀"などというあだ名がつけられる

 

しかし天真爛漫、演技も素直で下加茂の

時代劇にも呼ばれ、林長二郎主演の

「江戸ごのみ両国双紙」

鼠小僧次郎吉」解決篇(1932年)などに

あどけなく可憐な姿を見せた

 

1932年には明治座の新派公演「新補・松風村雨」に

借りられ、実母役の花柳章太郎

義母役の岡田嘉子と臆することなく共演

この公演の「満州国」にも

中国服を着て皇帝・溥儀の幼年時代を演じ

すでにうたわれていた天才子役の名を

いっそう高め、11月の大阪・歌舞伎座の新派

「谷底」にも招かれ、再び花柳と母娘を演じた

 

このころになると自分が一家の働き手である

という自覚もうっすらとだが持ち始め

同時に子役ではあるが女優としての意識も

もたげ出し、島津保次郎監督「頬を寄すれば」

(1933年)では富豪の邸に住み込む

お抱え運転手の母のいない娘に扮し

母を欲しがる彼女のために母親代わりみたいに

愛情を示してくれるお邸の令嬢を慕い

やがて本当の母になってくれるものと

信じ込む、いじらしい少女を父親役の

岡譲二、令嬢役の及川道子を食って

しまうほどの名演で見せ、子役として

大きな成長を遂げた

 

歌手・東海林太郎に可愛がられる

 

1934年には秀子を可愛がってくれ

松竹下加茂の「巷説・濡れつばめ」(1933年)

の主題歌も作詞した作詞家・藤田まさと

推薦でポリドールの専属歌手・東海林太郎

「赤城の子守唄」大ヒットを記念して

日比谷会堂で催された実演に東海林太郎扮する

この歌の主人公・板割浅太郎の幼い子・

勘太郎の役で出演

秀子は秋田県出身で東北なまりのひどい

東海林の台詞を代弁したうえ、10歳にもなる

自分を背負って歌うのはさぞ重くて

歌いにくいだろうと東海林の胸を

締めつけている負い紐を息がしやすいようにと

前に引っ張ってやり、これに感激した

東海林から養女にと申し込まれ

これはさすがに養母が断ったが

それならピアノと歌を仕込みたいから

という東海林の重ねての申し出を受け

ほとんど蒲田の家へ寄り付かない

養父をおいて養母と2人で東海林家に

移り住み、三ッ木小学校へ転校する

 

東海林太郎(右)と)

 

東海林には先妻との2人の男の子が

あったが秀子とほぼ同年齢で

仲良しとなり、後妻も実子がないことから

彼女を宝塚少女歌劇に連れて行って

くれたり社交ダンスのレッスンを

受けさせたりして可愛がってくれた

 

しかし東海林の秀子に対する溺愛ぶりは

異常なくらいで、彼女を片時も離さず

遊びに連れて行ってはくれるが

東海林家へ入るときの条件だった

ピアノと歌のレッスンはお預けのかっこうで

演奏旅行にまで連れ出され

彼女は撮影所へもあまり行かなくなる

 

ついに東海林家を飛び出す

 

一方、義母は食べさせてもらうお礼として

女中がわりに働きだし、同じ屋根の下に

母子で暮らしながら片や女中となって

秀子も身の置きどころがなくなり

1935年、ついに彼女は義母を促し

東海林家を出て、国電大森駅近くの

アパートに引っ越す

この間、義母は夫と離別していた

 

参照:

キネマ旬報社『日本映画俳優大全集・女優編』

 

なおこの記事は続編へと続きます