昭和寅次郎の昭和レトロブログ

昭和を知らない世代による昭和レトロ、昭和芸能のブログです!

【番外編】日本映画の発展は小津・清水・山中監督の交友が背景にあった!

 

小津・清水・山中監督の友情トライアングル

 

今回は番外編としてこれまで紹介してきた

戦前の映画の監督さん、小津安二郎

清水宏山中貞雄の交友関係が

日本映画界にもたらした影響について

取り上げます

 

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3人の監督が仲良くなった経緯

 

小津監督と清水監督は

1903年生まれの同い年で

山中監督は1909年と6年遅れて生まれました

 

まず最初に仲良くなったのは同い年で

同じ松竹撮影所にいた小津監督と

清水監督でした

 

山中監督は京都から上京

 

山中監督は日活の京都撮影所にいましたが

1934年に映画評論家の岸松雄さんとともに

上京して小津監督と清水監督に出会い

3人は意気投合したそうです

 

この山中監督の上京について

甥で映画監督の加藤泰さんは

小津監督と話がしたかったからでは?

と推測しています

 

山中監督は岸松雄さんに

来年はひとつ東京へ行くさかい

蒲田撮影所案内してや」と言っていたとのこと

 

岸松雄さんはすぐに蒲田に電話を入れて

小津監督を呼び出してもらっていて

小津監督の日記にも

 

山中貞雄が上京との電話

キネマ旬報社の岸よりあり

この日の夕方より 井上金太郎

岸松雄、山中貞雄清水宏

相州湯河原 中西に行く

 

 

と書かれています

 

加藤泰著『映画監督 山中貞雄』より引用)

 

山中監督がそこまで小津監督に会いたがったのは

監督が飽くなき向上心を持っていて

映画監督として順調なキャリアを歩んでいたものの

更なる高みへと駆け上るには

東京の人の話、特に小津監督の話が聞きたかった

というのが加藤泰監督の推測です

 

ついに3人の監督が集まる

 

岸松雄さんと山中貞雄監督は

松竹蒲田撮影所を訪れ

待っていた小津監督、清水監督

井上金太郎監督と5人で湯河原温泉

中西旅館に行って大いに飲み

ひたすら映画の話に花を咲かせたそう

 

(1934年に湯河原駅にて。左から岸、井上、清水、山中。撮影者は小津)

 

そうして一度は京都に戻った山中監督でしたが

その後も東京へ来て小津監督と小料理屋で

ご飯を食べたり、飲んだり

歌舞伎を見に行ったり

深川にある小津監督の家に泊まったりと

何度か上京しては京都に帰ったようです

 

小津監督の方も用事で京都へ行った際に

山中監督と会い大いに語り合うなど

交流は深まるばかりでした

 

監督たちは互いの映画を見ていた

 

岸松雄さんによると山中監督の小津監督

清水監督への傾倒ぶりは

信仰に近いものがあったようで

山中監督は小津監督の「非常線の女」の台詞を

いたく気に入りよく口ずさんでいたのだとか

 

小津監督の方も清水監督と斎藤良輔さんを連れて

山中監督の映画「国定忠次」を見た日に

日記に「山中貞雄のものでは一番いいと思う」

と記しています

 

清水宏監督が撮影した山中貞雄監督(左)と小津安二郎監督(右))

 

山中監督は京都で日本初の脚本家集団を結成

 

山中監督は京都で「鳴滝組」なる

日本初の脚本家集団を結成し

映画を製作しました

 

メンバーには稲垣浩監督や

滝沢英輔監督がいました

名前は当時メンバーである監督たちが

京都の鳴滝に住んでいたことから

名づけられました

 

この動きは日本の時代劇映画の発展に

大きく寄与することになったばかりでなく

当時の日本映画の発展にも

つながっていきました

 

日本映画監督協会が結成される

 

二・二六事件のあった年に

当時の日本映画を代表する

東西の監督が結集した

日本映画監督協会が結成されました

 

日本映画監督協会創立の集合写真)

 

メンバーは東側は阿部豊監督

内田吐夢監督、田坂具隆監督

島津保次郎監督、小津安二郎監督

清水宏監督、成瀬巳喜男監督など

 

西側は衣笠貞之助監督、伊丹万作監督

伊藤大輔監督、溝口健二監督、山中貞雄監督

稲垣浩監督といった実に豪華な面々です

 

こうして東西の監督が映画会社の枠を超え

交流することで切磋琢磨し合い

数々の日本映画の名作が生み出される

要因の一つとなったのです

 

こうした動きが映画界であったと知ると

かつて学校の文学史で少し習った

小説家たちのグループ、白樺派ですとか

自然主義新感覚派といったものを

思い起こさせますね

 

山中監督の鳴滝組や日本映画監督協会

発足の経緯を知るまでは映画ファンとして

ただ1作1作を見て行くだけだったものが

こうした背景を知ることで

1930年代の日本映画の充実ぶり

戦後に日本映画が世界から評価されるようになったのは

裏でこうした動きがあったからなのか!

映画界でも文学界でいう「文壇」のような

交流があったのか!と驚かされました

 

しかし日本映画監督協会が発足して

さぁこれからというときに

山中監督は悲劇の道へと

引き込まれてしまいます

 

山中貞雄監督に召集令状が来る

 

1937年、山中貞雄監督の「人情紙風船」の

封切りの日に撮影所の食堂の前で

みんなで和気あいあいとしていたときに

山中監督宛てに電報が届きました

それは召集令状でした

 

小津監督はそのとき「戦争を急に身近に感じた

と雑誌「キネマ旬報」に書きました

 

小津監督や清水監督らで山中監督の

送別会を開き、清水監督は山中監督に

お前、絶対に死ぬなよ

お前はこれから映画をもり立てていく

人間なんだからな、絶対に死ぬなよ」と声を掛け

山中監督は「ああ、死なないよ」と言い残し

戦線に駆り出されました

 

その小津監督も山中監督の招集から

2週間後に召集されました

 

山中監督が派遣された先は中国でした

中国へ向かう船中でも山中監督は

映画への創作意欲は衰えることなく

兵士たちを観察しながら

ギャグに使えそうな言葉を

メモしていたそうです

 

山中監督は中国各地で戦闘に参加しますが

戦闘で怪我したりすることはなくても

次第に憔悴して下痢に悩まされ

「急性腸炎」と診断されて入院しますが

容態は回復せず帰らぬ人となりました

そのときまだ28才という若さでした

 

映画人たちの間に悲しみが広がる

 

清水監督は京都で山中監督の戦死の

知らせを聞き、大船に帰ると

机の上に山中監督からの手紙が

置いてありましたが

どうしても封を開けることができなかったと

雑誌「映画之友」に書いています

 

一方、小津監督は山中監督の訃報を

ひと月遅れで中国の戦地で知りました

その日、小津監督は一言も口をきかなかったそうです

 

そのほかにも滝沢英輔監督ら

日本にいた映画関係者が悲しい知らせを聞いて

呆然としたといいます

 

山中監督が戦後も生きていたら映画界は?

 

これは私がよく空想することなのですが

もし山中監督が戦後も生きて映画を作っていたら

同じく時代劇をよく撮った黒澤明監督とは

また違った時代劇を世に送り出し

さらに名声を高めて日本映画に

大きな功績を残しただろうと思います

 

山中監督を死に追いやった戦争は

国家に、日本映画界に大きな損失を

もたらしたと思います

 

山中監督のような名声を確立していない

まだまだ将来に可能性を残していて

いずれどこかの世界で活躍したであろう

名もなき若き兵士たちの命も奪ったのも

大きな損失だと思います

 

そのようなことが起こってしまう

それが戦争というもので

決して繰り返してはならないと思います

 

参照:

加藤泰著『映画監督 山中貞雄

フィルムアート社『映画読本 清水宏

尾形敏朗著『小津安二郎 晩秋の味』

 

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