昭和寅次郎の昭和レトロブログ

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昭和女優ファイル日活編③月丘夢路(前編)~宝塚のトップスターから戦後日活の看板女優へ~

 

今年で生誕100年を迎えた井上梅次監督の奥様

 

今回の女優さん紹介シリーズは

今年生誕100周年を迎えた井上梅次監督の

奥様で今年はイベントや関連書籍の出版もされ

一部?ではいま特に注目を

浴びている女優さんです

 

月丘夢路プロフィール

 

 

月丘夢路(本名:旭爪明子)は

1922年10月14日に広島市に生まれた

 

地元の袋町尋常小学校を経て

県立広島高等女学校に進む

 

小夜福子に憧れて宝塚入りしスターへ

 

小夜福子の舞台を見て宝塚に憧れて

1937年に高女を中退して宝塚に入学

同期に乙羽信子越路吹雪がいる

 

1939年宝塚少女歌劇団声楽専科生として

初舞台を踏む

 

宝塚でもそのエキゾチックな美貌は

ひときわ光り、轟夕起子小夜福子

後を継いでトップスターのひとりとなり

「太平洋」「銃後の合唱」(1940)

「楽しき隣組」「大空の母」(1941)

軍艦旗」「ピノチオ」(1942年)

などの舞台に立つ

 

宝塚在籍のまま映画に出演し映画でも魅力を開花

 

この間の1938年に歌劇団

宝塚映画の名のもとに専属スターの

出演による映画製作に乗り出し

月丘も清瀬英二郎監督「瞼の戦場」(1940)

と松井稔監督「南十字星」(1941年)に主演した

 

1942年五所平之助監督が長年在籍していた

松竹から大映に移り、藤沢恒夫の

新聞連載小説「新雪」を映画化する際

心機一転を期しそのヒロインに月丘を起用

彼女は宝塚在籍のまま自活する眼科医に扮し

固い信念と豊かな行動力を持った国民学校

先生(水島道太郎)をめぐる恋愛競争の

勝利者となるが国策の押し売りと忍従を

美徳とする映画が目立ったそのころにあって

主人公がそれぞれの自我と誇りを持つ

この映画はそれだけでも際立っていて

小学校が国民学校と変わり

教育招集とか南方調査団の派遣といった

ことに太平洋戦争2年目の時局が

色濃く反映しているものの

美しく勝気な女医を演じた月丘の新鮮さは

目を見張るものがあり灰田勝彦の歌った

主題歌も大ヒットした

 

批評家からも

月丘夢路の演技がしっかりしているのに

おどろいた

将来いい女優になる素質を十分に

持っていると思う」と演技を絶賛された

 

仲間内で作る宝塚映画は別として

戦時中としては類を見ない

華々しいデビューであった

 

(1943年発行の映画雑誌の表紙を飾る若かりし頃の月丘夢路さん

雑誌「映画ファン」1955年9月号より)

 

次いで佐伯幸三監督「華やかなる幻想」

(1943年)に出演したのち宝塚を退団し

宝塚としては轟夕起子宮城千賀子に続く

映画界へのスターの流出であった

 

1943年の出演作が4本、44年が4本

45年は終戦までに3本という数字は

戦時体制下で製作本数が大幅に制限され

映画出演に見切りをつけて旅回りの芝居に

出るスターも少なくなかった当時としては

驚くべき活躍ぶりで早くも押しも押されぬ

大映の中心スターとなった

 

もっとも田中重雄監督「モンペさん」(1944年)

では題名通りのモンペ姿

水谷八重子主演の異色作「小太刀を使う女」

(1944年)では武士の妻としての心構えを

説かれる役など時節がら得意の歌も踊りも

封じられてはいた

 

終戦後、日本映画界はGHQの指示により

製作方針を転換

その線にそって明治初期に恋愛の自由を

先取りした「扉を開く女」(1946年)で

月琴流しの娘に扮して久しぶりに

伸び伸びと演じマキノ正博監督の

正月用ミュージカル映画「満月城の歌合戦」では

宝塚の仲間の小夜福子轟夕起子と共演

 

松竹へ移籍するも役に恵まれず

 

1947年轟に誘われ当時の轟の夫だった

マキノ正博が所長をしていた松竹京都に入る

 

四歳下の妹・菊江(芸名:月丘千秋)も

宝塚音楽舞踊学校を経て松竹に入社しており

「地獄の顔」(1947年)では千秋と共演

同年「花ある星座」ではサラリーマン

灰田勝彦)の妻に扮した

 

この映画には千秋のほか当時三歳の末娘

洋子が夢路の子どもの役出演し

珍しい三姉妹共演と話題を呼んだ

 

その後も「社長と女店員」(1948年)

「君待てども」「嘆きの女王」

「悲恋模様」前後編「歌うまぼろし御殿」

(1949年)「素晴らしき求婚」「花のおもかげ」

夜の緋牡丹」「愛染香」(1950年)

「感情旅行」(1951年)に主演、準主演し

1951年の「宝塚夫人」では春日野八千代

有馬稲子、初音麗子、八千草薫

宝塚の現役スターと共演した

 

しかし出演作は多いものの彼女の近代的な

美貌や美しいプロポーションをいかした映画は

少なく脇役ながら小津安二郎「晩春」(1949)に

主役の原節子の親友に扮して生き生きと演じたのと

永井隆の手記を大庭秀雄監督が映画化した

長崎の鐘」(1950)で原爆の犠牲となる

永井夫人の役が印象に残る程度であった

 

(「晩春」の月丘夢路

 

渡米して舞踊や声楽の修業をするも日本でスキャンダルが起きる

 

1951年に彼女の美貌と歌を存分にいかした

アメリカ流の軽喜劇「東京のお嬢さん」を

携行して妹の千秋とともに渡米

 

(妹の千秋さんの帰国時のインタビュー記事。雑誌「近代映画」1952年2月号より)

 

当初は2か月あまりの予定で

帰国したら記念映画として「ルンパの女王」が

準備されていたが千秋だけが帰国

夢路はニューヨークに残って

声楽をロシア人のマゼルとアメリカ人のマディ

舞踊をカーネギーホールの中に

教習所を持つ新村英一に師事して

本格的な修行に励んだ

 

この間の1952年に渡米するまでに同棲していた

岩井正蔵が独断で入籍

彼女の家を自己名義にして無断で売却

愛人と行方をくらまし彼女の父と

マネジャーに訴えられるという事件が

明るみに出てマスコミをにぎわせた

 

1952年7月に満1年1か月ぶりに帰国

帰国第1作は林芙美子・作の「うず潮

だったが安手のメロドラマの域を

出なかった

 

その後も企画に恵まれず大佛次郎の原作を

中村登監督が映画化した「旅路」(1953)の

バイヤー相手に腕を振るう元華族夫人が

目立つくらいだった

 

一世を風靡した「君の名は」3部作(1953~54年)

では後宮春樹(佐田啓二)の姉で戦争未亡人に扮し

日教組製作の「ひろしま」(1953年)では

勤労動員中に生徒とともに被爆し死んでゆく

女教師に扮しなりふり構わぬ熱演を披露

しかも後者は郷土広島への奉仕から

無報酬の出演で賞賛を浴びた

(詳しくは下の記事を参照)

 

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このほかに川島雄三監督「東京マダムと大阪夫人

(1953年)「昨日と明日の間」(1954年)に

準主演し、「伝七捕物帳」シリーズの「人肌千両」

「刺青女難」「黄金弁天」(1954年)で

伝七(高田高吉)の恋女房を演じている

 

(「伝七捕物帳」シリーズ「人肌千両」より。左が高田高吉

雑誌「映画ファン」1954年5月号より)

 

日活へ移籍して大成功を収める

 

1955年に製作を再開したばかりの日活と

専属契約を結ぶ

日活での第1作目は同じく松竹から移籍した

川島雄三監督による「あした来る人」(1955年)で

「おしゅん捕物帖・謎の尼御殿」で女探偵

おしゅんを颯爽と演じ

続く川島監督「銀座二十四帖」に主演

さらに内田吐夢監督「自分の穴の中で」で

中年の未亡人に扮して助演し

田中絹代監督「乳房よ永遠なれ」で

乳がんのため乳房を失う薄幸の女流歌人

演じるなど女盛りの彼女の味をたっぷりと

いかした作品が続き松竹時代と比較しても

日活が彼女を大切に使っていたことがわかる

ちなみに出演料も松竹のときの倍の

1本200万円で日活の俳優のなかで最高だった

 

(「あした来る日」の宣伝。月丘がいちばん大きく扱われ日活の期待感が伺える

雑誌「近代映画」1956年5月号より)

 

1956年には川端康成・作「東京の人」で

宝石デザイナーの未亡人に扮し

続く伊藤整・作「火の鳥」に主演した

 

(「火の鳥」のころの月丘夢路。雑誌「映画ファン」1956年7月号より)

 

この「火の鳥:は彼女にとって大きな意味があった

この映画で井上梅次監督と知り合ったことである

 

井上梅次監督と結婚

 

その後、井上監督の「月蝕」(1956年)

「踊る太陽」「危険な関係

鷲と鷹」(1957年)に出演し

1957年に井上監督と結婚した

 

(「鷲と鷹」の宣伝)

 

この間に泉鏡花・作「高野聖」を滝沢英輔監督が

映画化した「白夜の妖女」(1957年)で

飛騨の山奥で次々に旅人を誘惑し

動物に変身させる妖艶な美女に扮し

熟れきった女体を披露して

代表作の一つとする

 

結婚後も仕事を続けて三島由紀夫・作

美徳のよろめき」(1957年)では

名門に生まれた気品ある夫人のよろめきを好演

なお彼女の少女時代を妹の洋子(当時13歳)が

演じている

 

その後出演した10本のうち半数の5本

夜の牙」「夫婦百景」「素晴らしき男性

「続夫婦百景」(1958年)「東京の孤独」

(1958年)は井上監督の作品であった

 

裕次郎の登場で活躍の場が減りフリーへ

 

60年代を迎えた彼女は1つの転機に立たされる

彼女に最高の出演料を払い

中年にさしかかった彼女のために

数々の企画を用意した日活も

爆発的な人気を呼ぶ石原裕次郎主演の

アクション映画へと急速に傾斜してゆき

また浅丘ルリ子北原三枝といった

若手女優の人気も定着し、ファン層も

若者中心となって来ていた

 

1959年に契約が切れたまま

長女出産のために休んでいた彼女は

日活との再契約をやめフリーになることを決意

 

1960年、大映京都「一本刀土俵入」でカムバック

以後重要な脇役で出演後、1963年以降は

TVに活躍の中心を移す

フジ「海峡」(1961年)などのよろめきドラマ

出演して茶の間で親しまれたほか

TBS「青年の樹」(1961年)「東京の人」(1966年)

NET「女紋」、日本テレビ「花ぼうろ」(1967年)

テレビ朝日「京都妖怪地図・嵯峨野に生きる

100歳の新妻」(1980)など多数出演

 

その後は映画もTVも露出は減ったものの

2004年に82歳でミュージカル

マイ・フェア・レディ」に出演し

2012年に「徹子の部屋」に出演したのを最後に

2017年5月9日に肺炎のため死去

帰らぬ人となったが2014年に

「宝塚の殿堂100人」に選ばれ

功績を讃えられている

 

参照:

キネマ旬報社『日本映画俳優全集・女優編』

女優月丘夢路さん死去 14年に宝塚の殿堂100人 - おくやみ : 日刊スポーツ

 

なおこの記事は後編へと続きます

 

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