昭和寅次郎の昭和レトロブログ

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昭和女優ファイル東宝編①原節子(戦後編)民主主義のヒロインから大女優へ

 

戦意高揚映画のヒロインから民主主義のヒロインへ

 

戦前編、戦中編と書いてきた

原節子さん紹介シリーズも

今回の戦後編で最後となります

 

 

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最終回の今回は戦中に戦意高揚映画の

ヒロインとして駆り出された時代から一転

終戦を迎えて民主主義のヒロインを演じ

さらに小津安二郎監督や黒澤明監督

成瀬巳喜男監督といった巨匠に起用されて

本格的に演技面を評価され

大女優へと大きく飛躍した時代に迫ります

 

原節子プロフィール(戦後)

 

 

戦意高揚映画から民主主義映画のヒロインへ

 

原節子の戦後最初の出演作品は

渡辺邦男監督「緑の故郷」「麗人」

そして黒澤明監督の「わが青春に悔いなし」

(いずれも1946年公開)

 

特に「わが青春に悔いなし」は

戦前の大学自治弾圧事件で教壇を追われた

京大教授の娘役で

学生運動で投獄された父の教え子と結ばれ

出獄後に日本の戦争拡大を阻止しようと奔走し

国際スパイ団の一味として検挙され獄死した

夫の郷里へ行って農業を手伝い

さまざまな苦難を耐え抜く女性を演じた

 

(「わが青春に悔いなし」より)

 

1947年にフリーとなって松竹の

吉村公三郎監督の「安城家の舞踏会」に出演

敗戦とともに没落した華族の次女に扮し

豪華な邸宅を離れてこれからどうするか

途方に暮れて気落ちしている父(滝沢修)らを

励ます良家のお嬢さんを演じた

 

(「安城家の舞踏会」より。右から原節子滝沢修森雅之高峰三枝子

 

この映画はキネマ旬報ベストワンに輝き

「わが青春に悔いなし」がベストテン2位に

選出されたことに続き

こうした高評価を受けた映画へ出演したことで

彼女の人気は急上昇する

 

この2作で演じた品のいいお嬢さん役で

その生真面目さと汚れのない微笑は

彼女こそ戦後日本の希望の星といった

印象すら与えて人々に希望を抱かせた

 

吉村監督には翌1948年の「誘惑」にも起用され

佐分利信演じる妻子ある青年代議士との

許されぬ恋に悩みながら明るく立ち上がる

ヒロインを演じた

 

松竹に続いて大映からも出演依頼が舞い込み

吉村簾監督「時の貞操」(1948年)に出演し

工場長に貞操を奪われたうえ妊娠して

解雇され転落の道をたどって末に再生する

女工の役を演じ、大映は当時としては破格の

100万円という出演料を払い

高峰三枝子上原謙を抜く新記録と

マスコミを賑わせた

 

また松竹の巨匠木下恵介監督にも招かれ

「お嬢さん乾杯」(1949年)に出演し

ここでもまた没落華族の令嬢を演じるが

この作品は自動車修理業を営む佐野周二との

見合い話に応じてデートを重ねるも

生まれも違えば趣味も違い

なかなかうまくかみ合わない男女を

ユーモラスに描いたコメディだった

 

(「お嬢さん乾杯」より。右は佐野周二

 

同年には今井正監督の「青い山脈」に出演

女学校の教師を演じてある生徒と旧制高校生の

交際が女学生の間で嘲笑や冷やかしの対象となり

教師の間でも波紋を呼んだが

ここで原は新しい男女の在り方を訴え

教師たちを説得して近代的な女性像を示し

みずみずしい美しさを人々の脳裏に焼き付け

藤山一郎の主題歌とともに大ヒットを記録

 

巨匠・小津安二郎監督の映画に出演

 

そしていよいよ小津安二郎監督との

運命的な出会いがやってくる

「晩春」(1949年)で初めて小津作品に起用され

大学教授の父・笠智衆の娘役で

父と二人暮らしをして父のために

結婚せずに尽くしながら生活をする

中産階級のお嬢さんを慎ましく演じた

 

(「晩春」より。右は笠智衆

 

ついに演技賞を手にする

 

1949年のキネ旬ベストテンでは

「お嬢さん乾杯」が6位

青い山脈」は2位

そして「晩春」が1位に選出され

さらに毎日映画コンクールで女優演技賞を受賞し

人気・実力ともにトップ女優となり

1949年の日本映画界は原節子の年

といっても過言ではない活躍ぶりをみせた

 

1951年は黒澤明監督の「白痴」

小津安二郎監督の「麦秋

成瀬巳喜男監督の「めし」と

日本映画史上に燦然と輝く名作に

立て続けに出演する

 

「白痴」はドストエフスキーの原作を

舞台を北海道に移して映画化した作品で

原はナスターシャ役(映画では那須妙子)として

黒いマントを身に纏い

小津作品や成瀬作品では見られない

鬼気迫る迫真の演技で堂々たる存在感を見せた

 

(「白痴」より。左奥は森雅之

 

小津安二郎の「麦秋」では再び

北鎌倉に住む中産階級のお嬢さんが

結婚するまでの過程を演じた

 

(「麦秋より」。左は三宅邦子

 

成瀬巳喜男監督の「めし」は小津作品にも通じる

日常生活の細部をきめ細かく描いた

ホームドラマだったが小津とは異なり

もう結婚して何年か経った女性を演じており

倦怠期に入ったくたびれた

庶民的な主婦を好演している

 

(「めし」より。右奥は上原謙

 

この年の賞レースは「麦かめしか」などと言われ

どちらが勝つかが注目されたが

結果は「麦秋」がベストテン1位を獲得し

「めし」は2位という結果となった

 

毎日映画コンクールではこの2作品が

賞を分け合って女優賞は原が受賞し

さらにブルー・リボン主演女優賞も獲得

かつては美人だが演技は「大根」とみなされる

そのような向きもあったが今回の受賞で

悪評は一掃された

 

順風満帆に見えたが悲運に見舞われる

 

日本映画界を代表する巨匠の映画に

相次いで出演して演技賞も獲得し

戦後は女優としてのキャリアを順風満帆に

歩んでいるかと思えた矢先

成瀬巳喜男監督の「夫婦」に

上原謙と再び夫婦役を演じる予定が

撮影直前になって慢性の腸疾患が悪化

出演辞退を余儀なくされた

 

また義兄・熊谷久虎監督の「白魚」では

御殿場線の線路上で列車が走るシーンを撮る際に

カメラの目の前で停車するはずの列車が

止まらずカメラマンを務めた原の2番目の兄

田吉男が轢かれて死去

あまりに悲しい出来事であった

 

代表作「東京物語」に出演

 

身内の事故死という悲しみがあったものの

1953年についに自身の代表作でもあり

小津監督の代表作でもある「東京物語」に出演

尾道から東京見物へやって来た老夫婦

東山千栄子笠智衆に対して

子どもたちは日常生活の忙しさから

冷たい対応をしてしまうなか

いちばん親切に接する次男の嫁を演じ

自身や小津監督の代表作となるほか

現在では日本映画を代表する名作となっている

 

(「東京物語」より。右は東山千栄子

白内障により女優活動を一時休止

 

1954年には白内障により左眼がはっきり見えなくなり

手術をして女優活動休止をすることになる

 

1955年には病気が回復し倉田文人監督の

「ノンちゃん雲に乗る」で

鰐淵晴子の母親役で映画界に復帰

これは原にとって初めての母親役だった

 

小津・成瀬映画の常連女優となる

 

1956年には成瀬巳喜男監督の「驟雨」に出演し

今度は佐野周二を相手に倦怠期の主婦を演じた

 

1957年には小津安二郎監督の「東京暮色」で

夫との仲がうまくいかず父の実家に戻るも

最終的には子どもの将来を考え

夫との夫婦生活をやり直すことを決める

しっかりした気性の人妻を演じ

1960年には再び小津安二郎監督の「秋日和

翌年にも小津監督「小早川家の秋

成瀬巳喜男監督の「娘・妻・母」に出演

秋日和」では嫁に行く年頃の司葉子

母親役を演じており

原もそのような年齢に差し掛かっていた

 

忠臣蔵」を最後に引退・隠遁生活へ

 

1962年には「忠臣蔵」で大石内蔵助の妻

りくを演じてこの映画を最後に

引退宣言もすることなく表舞台から

姿を現さなくなった

 

この引退理由については諸説あり

1963年に小津安二郎監督が亡くなったから

衰えた容姿を晒したくなかったから

義兄・熊谷久虎監督が映画を撮れなくなったから

など書かれているものの

どれも推測に過ぎず真相は謎のままである

 

2015年11月に突如訃報が入る

 

隠遁生活をしていた50年以上の間

マスコミの関心は尽きることなく

週刊誌に隠し撮りをされたり

すでに死亡しているのではないか

という死亡説もささやかれたが

2015年11月に同年の9月5日に

亡くなっていたという訃報が入り

大きく取り上げられ海外でも報道された

 

享年95歳

原節子は謎を残したまま旅立ったが

出演した数々の名作で輝く姿は

今もなお人々を魅了してやまない

 

なおこの記事は後編へと続きます

 

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参照:

キネマ旬報社『日本映画俳優全集・女優編』

佐藤忠男監修『永遠のマドンナ 原節子