昭和寅次郎の昭和レトロブログ

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昭和女優ファイル東宝編➀原節子(戦前編)~家庭の困窮からスター女優へ~

 

もうすぐ原節子さんの誕生日

6月17日は小津安二郎監督作品などで知られる

昭和を代表するスター女優・原節子さんの誕生日です

 

何を隠そう、私は原節子さんの大ファンであり

また初めて好きになった昭和の芸能人でもあるという

個人的に思い入れの強い女優さんです

 

しかも2015年に亡くなった際は

引退から半世紀以上の歳月が

流れていたにもかかわらず

新聞では一面で大きく報じられ

海外でも取り上げられたほどの大女優さんなので

今回は戦前、戦中、戦後と3回に分けて

原さんのキャリアや個人的に思う魅力や

好きな作品などについて書いていきたいと思います

 

ではまずプロフィールから

 

原節子プロフィール

 

(雑誌の表紙を飾るほど戦前からのスター女優だった)

 

原節子(本名: 会田昌江)は1920年6月17日

神奈川県横浜市保土ヶ谷区月見台に

二男五女の末っ子として生まれた

 

色が黒く痩せていて目ばかり大きいということから

「五センチ眼(がん)」という徒名をつけられた

 

木登りが大好きで男の子にいじめられる

女の子を助けるというお転婆気質もあった

 

学校の成績は4年生までトップを続け

綴り方(作文)や唱歌、図画は苦手だったが

算術と体操は得意で5年生になると

スポーツ選手に憧れたり

6年生になると外国への憧れから

外交官の妻を夢見たりする

 

家庭の経済的事情から映画女優

 

1933年に横浜市高等女学校へ進学するが

2年生の1学期を終えた1934年に

女優をしていた次姉・光代の夫で

日活多摩川撮影所で監督をしていた

熊谷久虎から女優になるようすすめられる

このころは学校の先生にでもなろうかと

考えていたが実家の家業が傾き

女学校も引退せざるを得ないほど

家庭の経済事情が困窮していたため

女優になることを決意

義兄・熊谷と姉夫婦の家に同居する

 

1935年に日活多摩川撮影所へ入社

同年田口哲監督「ためらふ勿れ若人よ」(フィルム紛失)でデビュー

15歳になったばかりだった

芸名の「原節子」は映画の役名「お節ちゃん」から

撮影所所長・根岸寛一が命名した

 

(デビュー当時の原節子

 

同じく田口監督の野球&青春映画「魂を投げろ」(部分的にフィルム現存)

では再び女学生に扮して主演級の役を演じる

 

 

(デビュー作「ためらふ勿れ若人よ」より)

 

山中貞雄監督の「河内山宗俊」に抜擢される

 

阿部豊監督の「緑の地平線」(1935年、フィルム紛失)

(楠木繁夫の歌う主題歌が有名)で

初めてトーキー映画に出演

同じ阿部監督の「白衣の佳人」(1936年、フィルム紛失)

では入江たか子の恋人役・岡譲二の妹という大役を演じ

続く山中貞雄監督の「河内山宗俊」では一段と注目を浴び

大きな眼が特徴的な整った美貌は評判となった

 

大きな転機となった日独合作映画「新しき土」

 

河内山宗俊」撮影中の1936年2月

日独合作映画「新しき土」を製作するために

来日していたアーノルド・ファンク監督に

美貌を見込まれ主役に抜擢される

 



 

「新しき土」は当時としては破格の製作費で作られ

さらに日本映画史上初の外国との合作映画でもあり

大きな注目を浴びてヒットした

 

海外での上映のために欧州・アメリカ旅行へ

 

海外でもドイツをはじめ各国で上映されることで

1937年にドイツ封切りのために同作品を制作

配給した東和商事社長・川喜多長政、かしこ夫人

原の義兄・熊谷監督とともに

東京駅始まって以来の人出と言われる群衆に見送られ

満州、シベリアを経てベルリンに到着

 

(ドイツ滞在中の写真。右の女性が川喜多かしこさん。

中央は映画「制服の処女」の主演女優ドロテア・ヴィークさん)

 

ベルリンをはじめ、ハンブルクミュンヘンなど

上映の度にドイツ各都市の劇場で振り袖姿で

ドイツ語で舞台挨拶をし拍手喝采を浴びた

 

 

(ドイツでの舞台挨拶の様子。左が原節子で、いちばん右がファンク監督)

 

(ベルリンの映画館に掲げられた「新しき土」の看板。この扱いの大きさから

当時の話題作だったことが伺える)

 

その後も船でニューヨークへ向かい

ハリウッドの撮影所を見学するなどし

横浜港へ向かって帰国

 

この欧州~アメリカの旅行では

フランスでジュリアン・デュヴィヴィエ監督

アメリカではマレーネ・デートリッヒなどと会い

貴重な体験を積んだ

 

帰国後は東宝の前身・PCLに移籍

 

帰国早々、原は東宝の前身であるPCLへ移籍

1937年には山本薩男監督の「母の曲」で

英百合子の娘役を演じ

同年『レ・ミゼラブル』を翻案した

伊丹万作監督の「巨人傳」に抜擢

1938年年にはフランスのアンドレ・ジッドの

小説を原作とした「田園交響楽」に出演するなど

日本人離れした彫りの深い美貌を活かした

外国の翻案ものに立て続けに出演する

 

 

(映画「巨人傳」より。外国の女優のような風格がある)

 

しかしその後は徐々に戦争の足音が大きくなり

国策映画、戦意高揚映画の出演が多くなっていく…

 

この記事は後編へと続きます

 

後編では私が思う原さんの戦前作品の魅力などを書きます

 

なおこの記事の作成にあたって参照した書籍は

キネマ旬報社『日本映画俳優大全集・女優編』

佐藤忠男監修『永遠のマドンナ 原節子のすべて』

です