昭和寅次郎の昭和レトロブログ

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昭和女優ファイル松竹編➀有馬稲子(前編)~向上心の強い才色兼備女優~

 

有馬稲子プロフィール

 

 

有馬稲子は1932年4月3日

大阪府豊能郡池田町(現・池田市)に生まれた

本名は中西盛子

父がコミュニストだったため官憲に追われ

釜山と大阪を行ったり来たりという

幼少期は転々とした生活を送る

 

釜山在住時は義母が日本舞踊を教えて

生計を立てて、自身も踊りや三味線を覚える

 

(5歳のころ)

 

終戦後に命からがら釜山から引き揚げ

 

釜山高等女学校在籍時に終戦を迎え

日本人への風当たりが強まると

身の危険を感じて義母とともに

密航漁船で朝鮮から引き揚げる

(引き上げ体験については自著

『のど元過ぎれば有馬稲子』等に詳しい)

 

宝塚音楽学校へ進む

 

引き揚げ後は実母の家で間借り生活を

始めるも家庭の問題(とりわけ父の暴力)で

友人の勧めで宝塚音楽学校を受験、入学する

このとき養母が大正時代に有馬稲子の名で

宝塚の舞台を踏んでいたことを初めて知る

自身も芸名を有馬稲子とし

二代目を襲名することとなる

 

1049年に初舞台を踏み

1951年には映画「宝塚夫人」

「せきれいの曲」などに出演

 

(宝塚時代。中央が有馬稲子、左が淀かほる、右が南風洋子

 

東宝の専属女優へ

 

1952年に東宝藤本真澄プロデューサーから

映画界入りの話を持ち掛けられ快諾

理由は借金の肩代わりという経済問題だった

 

(有馬稲子の映画界入り、東宝への入社を伝える当時の記事

注目の大きさがうかがえる?)

 

 

1953年に千葉泰樹監督の「ひまわり娘」で

三船敏郎の相手役を務める

東宝では第二の原節子と売り出しに力を入れ

「1953年の顔」とまで言われる

 

次々と主役級の仕事が舞い込むが

映画はプログラムピクチャーが多く

役も素直で優しい娘ばかりで

不満を持つようになり

宣伝部が持ち込むインタビューや

写真撮影を次々と拒否するほか

自ら会社に企画を持ち込むなどしたため

いつしか会社内で「生意気」との評判が立ち

「ゴテネコ」(ごねるネコ)のあだ名がつく

 

岸恵子久我美子の導きで松竹へ移籍する

 

岸恵子久我美子が映画会社から拘束

されることなく(五社協定という所属の

映画会社の作品だけに縛られず)

良心的な作品や年に一度の他社出演

俳優の向上を目指す目的で結成した

文芸プロダクションにんじんくらぶ

に誘われ参加

これを谷崎潤一郎川端康成などの

文壇も後援会を作って応援した

 

有馬は1955年に東宝を退社して松竹へ移籍

 

(「にんじんくらぶ」の3女優。奥が有馬稲子

手前は左が久我美子で右が岸恵子

 

松竹作品で演技力を開花させる

 

松竹移籍後も美人女優を売り物にされるだけの

作品もあったはものの1956年の「泉」で

植物学者役の佐田啓二の相手実業家の秘書を演じ

演技的成長を認められる

 

続く「女の足あと」では監督の渋谷実

厳しい指導にあいながらも

女の愛と憎しみを鮮烈に演じて評価される

 

以後は娯楽映画にも数多く主演し

人気の点でも申し分ない地位を獲得

 

1956年には小津安二郎監督の「東京暮色」

に起用され自滅の道を辿る良家の娘を好演

 

1957年には小林正樹監督の「黒い河」

1958年には今井正監督の「夜の鼓」と

名匠の作品に相次いで出演する

 

(「夜の鼓」で三國連太郎と)

 

自らの企画作がついに成功!演技賞も受賞!

 

1955年に自ら企画を持ち込んだ高見順原作の

「胸より胸に」の映画化を実現し

自らも主演するが成功とはならなかったが

1959年の五味川純平原作の「人間の條件」は

自身は中国娼婦という小さな役ながらも

映画は成功を収める

 

1961年には石川達三の「充たされた生活」

1962年には今東光の「お吟さま」と

自らの企画の映画化を次々と実現させる

 

それまで縁のなかった演技賞も受賞する

1959年の「浪花の恋の物語」では

後に結婚・離婚することとなる

中村錦之助を相手に遊女・梅川を演じ

翌1960年の「わが愛」では妻子ある中年男に

ひたむきな激しい愛をささげる若い娘を演じて

評判となり、この2作で地方新聞記者会の

主演女優賞を受賞

「わが愛」ではアイルランドのコーク映画祭で

主演女優賞を獲得する

 

’(「浪花の恋の物語」で中村錦之助と)

 

(「わが愛」で佐分利信と)

 

 

舞台やTVドラマにも進出

 

1963年の舞台版の「浪花の恋の物語」を

皮切りに舞台作品にも出演するようになる

 

1964年の「奇跡の人」のではヘレン・ケラー

家庭教師のサリバン先生を演じて成功を収め

ゴールデン・アロー賞を受賞する

 

(「奇跡の人」でサリバン先生に扮してヘレン・ケラーを指導する場面)

 

また1964年からフジテレビ「通夜の客」

(「わが愛」のドラマ化)や日本テレビ

有馬稲子アワー/再会」などTV界にも進出し

1965年には伊藤大輔監督「徳川家康」や

渋谷実監督「大根と人参」に出演し

映画、TV、舞台を股にかけて活躍する

 

劇団民藝で演技を学ぶ

 

映画、TV、舞台で成功を収めても満足できず

「演技の勉強をしたことがない」「してみたい」

宇野重吉劇団民芸で演技を学ぶようになる

劇団民藝では自ら切符売りをしたり

宇野から「君は何をやっても有馬稲子だねぇ」

と言われるなど厳しい指導を受けるも

研究生としての勉強や舞台は新鮮だった

 

しかし2度目の結婚を機に

民藝を2年ほどで退団することとなる

原因は旅公演が続く民藝の舞台では

夫婦の時間がなかったためだった

 

ライフワーク「はなれ瞽女おりん」に出会う

 

再婚から幾年か経ったときに

演出家の木村光一から水上勉原作の

「はなれ瞽女おりん」出演の打診を受ける

 

瞽女さんと呼ばれていた盲目の三味線弾きの

女性の旅芸人という難役であったが

1980年から2004年まで24年間日本各地で

公演を重ねたほかイギリスやベルギーなど

海外公演も行い大成功を収め

国内外の総公演数は684回を数える

 

現在はケア付きマンションで生活するも…

 

近年はケア付きマンションで住民と

穏やかに生活し、マンションの庭には

「モネコガーデン」(画家のモネと

稲子から名付けた)を作って

ガーデニングを楽しんだりという生活を送りながら

朗読公演やTVドラマ「やすらぎの郷」に出演するなど

少ないながらも女優業をやっていたが

コロナ禍以降は表舞台に姿を現さず

自身のブログも削除された状態で

近況は不明

 

この記事は後編へ続きます

 

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