没後10年!島倉千代子さん!
今回は11月8日に没後10年の命日を迎えた
昭和の歌手・島倉千代子さんを取り上げます
生前は美空ひばりさんのライバルのように
坂本冬美さんなど島倉さんを今でも
敬愛する歌手がたくさんいるにも関わらず
私の世代やさらに若い世代の知名度が
低いように感じられ
このままでは風化してしまう!と
危機感を抱いているので
大きく取り上げることにしました
島倉千代子プロフィール
(デビュー当時の島倉千代子)
戦時下を過ごした幼少期
島倉千代子は1938年3月30日
東京都品川区北品川に
二男四女の四女として生まれた
1944年に品川区立城南第二国民学校
(現:城南第二小学校)に入学する
しかし太平洋戦争真っ只中で
勉強どころではなく演習を繰り返す
学校生活を強いられる
しかし戦況の悪化から
東京に原爆が落ちるという噂を耳にし
その疎開生活で島倉は井戸から汲んだ
水の入ったガラス瓶を手押し車で
水を運んでいるときに瓶を割ってしまい
その破片が左腕に刺さり
47針を縫う大怪我をする
このときの怪我が後の島倉の人生に
負の影響を残してしまう
終戦を迎えると帰京して品川の小学校へ戻る
天性の歌の才能でコンクールで優勝
それから品川周辺の若者による
楽団に加わり人気の歌姫となる
当時は素人のど自慢大会が人気で
島倉は姉の敏子とともに頻繁に参加し
上位に入賞する
小学校6年生の1949年にテイチクレコードで
歌の手ほどきを受け戸倉千代子名義で童謡
「お山のお猿」を吹き込む
中学2年の1951年にラジオ東京の
素人歌合戦で2位となった
1953年には品川高校に入学するものの
日本音楽学校に転校
1954年には第5回コロムビア
全国歌謡コンクールに鳴海日出夫の
「涙のグラス」を歌って見事優勝を飾る
(第5回コロムビア全国歌謡コンクールで優勝したときの写真)
(優勝の記念品を手にする島倉千代子)
デビュー曲がいきなりの大ヒット!
1955年に高校在学のまま
コロムビアレコードと専属契約を結ぶ
同年、雑誌「明星」連載の北条誠の
映画化した松竹の「この世の花」第一部の
作曲)で歌手として正式にデビュー
映画にも芸者の役で顔を出すが
主題歌が200万枚を売り上げる
爆発的なヒットを記録し
華々しいデビューを飾った
(私の所有する「この世の花」を収録したレコード)
日本調のメロディー
ハイトーンの繊細な音色
メリハリのきいた節回しで
「りんどう峠」(1955年)
「東京の人さようなら」
「逢いたいなァあの人に」(1956年)
「東京だよおッ母さん」(1957年)など
ヒット曲を次々と世に送り出し
「島倉節」と呼ばれる泣き節を築き上げた
1957年には「逢いたいなァあの人に」で
紅白歌合戦に初出場を果たす
以来、30年連続を含む合計35回出場
トリも6回務めた
また東宝映画「いで湯の姉妹」
「東京の人さようなら」(1956年)
「東京だよおッ母さん」(1957年)などに
主演するなど女優としても活躍する
(映画「東京だよおッ母さん」で東千代之介と)
(TVドラマでも主演を務めた。こちらは「あの橋の畔で」で園井啓介と)
1961年には東京・歌舞伎座で長期公演を行う
歌手による歌舞伎座公演は
美空ひばりに次いで2人目だった
(歌舞伎座初出演の様子)
私生活は苦しいことの連続だった
華々しい歌手生活の一方で
私生活では不幸な出来事が続いた
失踪騒ぎ、ファンの投げたテープが目に当たり
失明寸前、うっかり保証人となったばかりに
騙されるように幾度となく背負った巨額の借金
そしてプロ野球選手との結婚の失敗…
(不幸な出来事の詳細は下記のサイトを参照してください)
(プロ野球選手の藤本勝美と結婚したころ)
しかし離婚した1968年には東京・浅草の
国際劇場にて「歌手生活15周年記念リサイタル」を行い
また「愛のさざなみ」が100万枚を売り上げる
大ヒットを記録し第10回日本レコード大賞
特別賞を受賞
これは島倉自身「大きな励みになった」と
発言している
以来、歌手生活の節目の年で
リサイタルを行うようになり
2004年の50周年リサイタルまで続いた
また新宿コマ劇場などでも定期的に
劇場公演を行った
(雑誌「平凡」の人気投票からも当時の人気ぶりが伺える
こちらは1964年のもの)
愛憎入り混じった関係だった母が死去
1972年には愛憎入り混じった
複雑な関係だった母・ナカが死去
1975年には「オリジナル1000曲吹き込み」
記念作品「悲しみの宿」を発売
東京・NHKホールで記念リサイタルを行い
日本レコード大賞では1000曲吹き込みの
功績を認められ特別賞を受賞
(ハワイ公演の模様。開催時期は不明)
自身の代名詞的な歌「人生いろいろ」との出会い
1986年には代表曲「人生いろいろ」を発売
日本レコード大賞作詞賞を受賞
翌年には歌唱賞を受賞した
この曲はバラエティ番組で
山田邦子やコロッケが物真似したことで
1987年にかけて計130万枚を売り上げた
TVでの物真似で幅広い世代に浸透し
島倉を知らなかった当時の若者にも受け
また後に小泉純一郎元首相が
国会答弁で「人生いろいろ」を引き合いに出した
売り上げ枚数では「この世の花」がNo.1だが
世の中での浸透度は「人生いろいろ」が
いちばんだといえる
島倉自身は「第2のデビュー曲」と発言している
若年層への浸透度はコンサートにも表れた
50周年記念リサイタルでいつもと違う
若い観客の声援が島倉に届いた
(50周年記念リサイタルでの島倉)
乳がんが判明・手術へ
1990年に恩師である浜口庫之助ががんで亡くなり
これをきっかけにがん撲滅のために
を設立し、早期発見の大切さを訴えた
しかし1993年に人間ドックで
自身に乳がんが見つかってしまう
撲滅運動からがんへの意識が高く
島倉は記者会見を開いて世間に公表
手術に踏み切り入院中に病院のホールで
「パジャマコンサート」を行い
退院の4日前からTVにも出演した
マスコミによる「重体説」報道を
払拭するためのものだった
なおこの乳がん公表、手術、闘病をきっかけに
乳がんの検査をする女性が飛躍的に増えた
乳がんからの復帰・これまでの功績が讃えられる
1994年には東京・名古屋・大阪で
「40周年リサイタル」を開催
この年は紅白歌合戦にも帰って来た
また以降はこれまでの功績を
讃えられるように数々の賞を受賞する
1997年には第39回レコード大賞功労賞を受賞
還暦を迎えた1998年には第9回
ベストジュエリーベストドレッサー賞
日本赤十字社・金色有功賞
第16回ベストジーニスト賞
秋の紫綬褒章を綬章
50周年リサイタルを開催するもまたしてもがんに…
2004にはキャリアの大きな節目である
歌手生活50周年記念リサイタルを行う
35回目となる紅白歌合戦への出場も果たす
しかし2010年に肝臓がんを発症
7歳のときの大怪我による輸血が影響し
かねてからC型肝炎だった
しかし島倉は肝炎のことはずっと隠し
やがてはがんになることを予感していた
肝臓がんの発症も周囲には明かさなかった
それでも2014年の歌手生活60周年に向けて
歌手活動への意欲は衰えず「からたちの小径」を
レコーディングした
しかしデビュー60周年を目前にした
2013年に肝臓がんのため死去
75年間の「いろいろありすぎた」
波乱万丈の生涯に幕を閉じた
参照:
キネマ旬報社『日本映画俳優大全・女優編』
多勢康弘著『島倉千代子という人生』
島倉千代子著『島倉家 これが私の遺言』
島倉千代子さんは「C型肝炎」だった 肝臓がんになることは覚悟していた: J-CAST ニュース【全文表示】
なお、この記事は後編へと続きます
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