昭和寅次郎の昭和レトロブログ

昭和を知らない世代による昭和レトロ、昭和芸能のブログです!

昭和俳優ファイル日活編➀石原裕次郎②昭和歌謡界で残した功績

 

今日は裕次郎さんの命日!

 

今日はいよいよあじさい忌

昭和の大スター石原裕次郎さんの命日です

 

前回は「映画史で重要な俳優さんである

という旨の記事を書きましたが

今回は「歌う銀幕スター」として

数多くのヒット曲も世に送り出した

裕次郎さんの昭和歌謡界で残した功績について

書いていきたいと思います

 

 

歌手顔負け?と言えるほどのヒット曲を量産

 

石原裕次郎さんが初めて歌声を聴かせたのが

映画「狂った果実」(1956年)の劇中で

挿入歌「想い出」を歌う場面

 

映画の公開に合わせてテイチクから

狂った果実(B面:想い出)」で

レコードデビューを果たします

 

翌1957年には何と12枚ものシングルレコードを発売!

なかでも「俺は待ってるぜ」は

160万枚のセールスを記録しました

 

その後もコンスタントにレコードを出し

特に1962年発売の牧村旬子とのデュエット曲

「銀座の恋の物語」は300万枚(!)を超える

大ヒットを記録しました

 

その他にも「二人の世界」「赤いハンカチ」

「夜霧よ今夜も有難う」「錆びたナイフ」

などなど数々のヒット曲を世に送り出し

上に挙げた楽曲はすべて100万枚以上の

売り上げを達成しています!

 

発売したレコードの数は450枚以上

総売り上げは500億円という

歌手専業のプロ顔負け?と言えるほどの

枚数を吹き込んでヒットを連発しました

 

(私の所有する裕次郎さんのシングルレコードの1枚)

 

レコード大賞の特別賞などの音楽賞も

本業は歌手ではないのにいくつか受賞されています

 

しかし年末の紅白歌合戦には

「歌は素人だから」と出演を辞退し続けてきました

 

 

日活俳優はこぞってレコードを発売することに

 

裕次郎さんの歌手としての成功から

日活の俳優さんはみなさんこぞって

レコードを発売することになりました

 

小林旭さんも独特の高音を活かして

裕次郎さんとはまた違った魅力で

コミックソングを歌ったりと

歌手としても大成功を収めました

 

裕次郎さんとアキラさんの成功がなければ

吉永小百合さんや浅丘ルリ子さんなど

日活は主要なスター俳優さんが

皆レコードを出すことには

ならなかったかもしれません

 

あの高橋英樹さんは歌が苦手なのに

レコードを出すことになり

今でもTVで「家族しか買ってくれなかった」

などと自虐的に歌手活動について語っています

 

裕次郎さんの歌手活動は

日活の俳優さんの歌手活動にまで

影響を及ぼすことになったのです

 

持ち歌を歌う「全国横断リサイタル」で自らの苦境を救った

 

1965年には「素人だから」と拒んできた

レコード発売以外の歌手活動を解禁しました

前回の記事で触れた石原プロの資金確保のため

北海道から九州まで24か所1日2回

全54公演ステージで歌うというもので

生で歌唱する裕次郎さんを見ようと

全国のファンが駆け付けました

 

舞台俳優ではない裕次郎さんは

「これほどぼくを受け入れてくれているとは

思わなかった。スクリーンだけじゃ感じ取れない

ものが客席からはね返ってくるんだ」

と語ったといいます

 

やはり映画ではお客さんの直の反応が

なかなかわからないですからね

 

この2年後にも再びリサイタルを行いました

後にも先にも裕次郎さんがステージに立って

生歌を披露したのはこの2回だけでした

 

このリサイタルの成功で石原プロでの

映画製作資金と社員の収入確保に

一役買うことになりました

 

「芸は身を助く」という言葉がありますが

まさにこのときの裕次郎さんに

ピッタリくる言葉ですね

 

世話焼きさんの性格ゆえになかにし礼さんを作詞家に!

 

また裕次郎さんは日本歌謡界の有名作詞家

なかにし礼さんをプロの作詞家にする

きっかけを作って歌謡界に大きく貢献しました

 

映画「太平洋ひとりぼっち」のロケで

滞在していた下田のホテルのバーで

飲んでいるときに裕次郎さんは

「いちばん幸せそうにしているカップルに

ごちそうしてあげよう」と声をかけました

その声をかけられたのはほかでもない

なかにし礼さんと奥様だったのです!

 

なかにし礼さんは新婚旅行でそのホテルに

泊まることになったのですが

まさかあの大スター裕次郎さんに

声をかけられるとは思いもよらなかったでしょうね

 

礼さんはこのときの裕次郎さんを

バーのライトを浴びて後光が差しているようだった

と振り返っています

 

そのときに以下のような会話が交わされました

 

裕次郎さん「んで何やって食ってんだい?」

礼さん「シャンソンの訳詞で……」

裕次郎さん「やめとけ、やめとけ、訳詞なんぞ

なんで日本の歌を書かないの。流行り歌をさ

俺が歌っているようなの」

礼さん「……」

裕次郎さん「まあいいや、君は見どころありそうだから

俺が応援するよ。自信作が出来たら持って来なよ

俺が売り込んでやるよ。頑張れよ」

 

 

このときの礼さんは少しムッとしつつも

あの裕ちゃんから言われたからには

書いてみようと思い

1年後に自ら作詞作曲して歌ったテープを

石原プロに持ち込みました

その歌は裕圭子とロス・インディオスと

マヒナスターズと田代美代子さんが歌って

ヒットした「涙と雨に濡れて」でした

 

これが昭和歌謡を代表する作詞家

なかにし礼さん誕生のきっかけでした

 

裕次郎さんの声かけがなければ

 

アン・ルイスさん「グッド・バイ・マイ・ラブ

島倉千代子さん「愛のさざなみ」

ザ・ピーナッツ恋のフーガ

弘田三枝子さん「人形の家」

細川たかしさん「北酒場

 

といった名曲は生まれなかったかもしれません

あるいはなかにし礼さんは才能のある方ですから

いずれは裕次郎さんではないどなたかが

発見したかもしれませんが

いち早く才能を発掘したのは

まぎれもなく裕次郎さんだと思います

 

普通なら「そうかシャンソンの訳詞かぁ

いつか流行歌も書いてみてね

俺の歌とか?まぁ頑張って」くらいの

社交辞令的なことしか言わないと思いますが

裕次郎さんはそのような口先だけのことは言わず

本気で「俺のところに持ってきなよ」と

仰るような方なので

人々から自然と慕われていたのでしょうね

 

というところが裕次郎さんが歌謡界に残した

偉大な功績なのですが

私にも功績を残してくれました(笑)

私は裕次郎さんの歌をカラオケでよく歌うのです

(もちろんひとりカラオケですが)

裕次郎さんの音域がちょうど私と合うのです

ありがたいことです

 

前回は俳優としての裕次郎さんの偉大さ

今回は歌謡界に残した功績を書きましたが

裕次郎さんのことはちょくちょく

書いていきたいなと思っています

 

では今回はこれで終わりです

最後にこの季節にピッタリな?

「想い出」の動画を貼ります

 


www.youtube.com

 

 

参照:

 

朝日新聞出版『映画にかけた夢 石原プロモーション58年の軌跡』

文藝春秋『スターの肖像』

 

px.a8.net

 

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