昭和寅次郎の昭和レトロブログ

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昭和女優ファイル日活編➀和泉雅子(前編)~思いついたらとことん突き進んできた人生~

日活女優第1弾は和泉雅子

 

今回は吉永小百合さん、松原智恵子さんとともに

日活三人娘の一人として日活映画で活躍され

さらに冒険家としても北極点到達を成し遂げた

和泉雅子さんにスポットを当てます

 

和泉雅子プロフィール

 

学校に行きたくなくて子役オーディションに応募

 

和泉雅子は1947年7月31日に

東京都中央区銀座に生まれた

 

父・宗太郎、母・満代ともに

近隣では評判の美形で飲食店を経営していた

 

泰明小学校在学中は勉強が苦手で

さらにいじめも受けていたため

何とか学校から逃れられる方法はないものかと

思案しているときに

子役オーディションの募集を見つけ

学校に通わなくて済む方法として

オーディションを受けて合格

1958年11歳のときに劇団若草に入団し

猪俣勝人監督の東宝映画「荒城の月」に出演

1959年には松竹の木下恵介監督の「風花」で

久我美子の少女時代を演じる

 

また同年にはTVドラマ「少年ジェット」にも出演

 


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柳家金語楼の弟子となり喜劇役者を目指すも…

 

中学生になると喜劇俳優柳家金語楼主演のTVドラマ

「おトラさん」に夢中になり

喜劇役者になりたくて金星プロに所属

念願の「おトラさん」に出演を果たす

新宿コマ劇場などでお芝居にも出演するが

美少女だったため演じる役柄は

どれも美人役ばかりで喜劇ができず

不満な気持ちを抱く

 

水の江滝子にスカウトされて日活へ入社

 

そんな舞台出演のために控室で待っていると

当時日活のプロデューサーだった水の江滝子から

スカウトされ日活へ入社

1961年に松尾昭典監督の「七人の挑戦者」に助演し

日活でのデビューを飾る

 

その後も二谷英明主演「暗黒街の静かな男

翌1962年には「銀座の恋の物語」で

助演ながらも石原裕次郎と共演する

 

しかし「若い爪あと」では青山恭二を相手に

「ひとつのいのち」では高橋英樹を相手に

主演を果たす

 

同年にはさらに中平康監督「若くて、悪くて、凄いこいつら」

で高橋、和田浩二、山内賢と共演

1963年には「泥だらけの純情」で

吉永小百合と共演したのち

浦山桐郎監督の「非行少女」に主演する

 

主演映画「非行少女」が絶賛され代表作となる

 

浦山は同映画にほかの俳優の起用を考えていたが

1962年の「キューポラのある街」で

吉永小百合をスターに育てた実績から

「次は和泉を」との会社側の要望で起用され

浦山監督のあまりに厳しい指導に

「ウラ公殺してオレも死ぬ」と

毎日のように日記に書いたというが

15歳の家出したグレた少女の喜怒哀楽を

表情豊かに見事に演じ切り

1963年のモスクワ映画祭でフランスの俳優

ジャン・ギャバンからその演技を絶賛され

映画祭では見事金賞を受賞する

 

 

高橋英樹山内賢舟木一夫とのコンビ作で成功する

 

石原裕次郎には北原三枝浅丘ルリ子

浜田光夫には吉永小百合といった

名コンビを作って映画を製作していた日活だが

高橋英樹の代名詞的作品となる時代劇

「男の紋章」シリーズ10作品で

和泉は高橋のヒロインを務めた

ほかのコンビ作には「エデンの海」(1963年)

刺青一代」(1965年)などがある

 

(映画「男の紋章」シリーズより)

 

高橋以外では山内賢とのコンビが成功した

「交換日記」「悪太郎」(いずれも1963年)

「二人の銀座」(1965年)「東京ナイト」(1967年)

などで息の合ったコンビぶりを発揮した

 

特に「二人の銀座」は映画化より先に発売された

レコードが大ヒットを記録

ベンチャーズの楽曲に歌詞をつけた歌で

純日本製の歌ではなかったため

音楽賞はレコード大賞の企画賞だったが

歌手活動でも代表作を持つこととなった

 

(大ヒットした山内賢とのデュエットソング「二人の銀座」)

 


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高橋、山内以外にも歌手の舟木一夫とのコンビでも

ヒット作を残した

「高原のお嬢さん」「哀愁の夜」(いずれも1965年)

絶唱」(1966)などがあり

なかでも「絶唱」はその年の日活映画で

最大のヒット作となった

 

日活を退社して活躍の場をTV、舞台に移す

 

しかしテレビの台頭により

映画業界が斜陽化するにつれて

日活も例外ではなく経営が傾いていき

低予算のロマンポルノ路線に

舵を切ることとなって1971年に退社

活躍の場をTVや舞台に移していく

 

主なTV出演はNET「犬と麻ちゃん」(1969年)

TBS「ありがとう」(1970年)

テレビ朝日「女教師」など多数

 

舞台作品は1972年に大阪・中座「あたしゃ一代」で

初舞台を踏み、東京宝塚劇場好色五人女」(1974年)

帝劇「台所太平記」(1977年)などに出演

 

冒険家として北極点到達に成功!

 

1980年代になると冒険家に転身し

北極点到達を目指すこととなる

きっかけはTVのレポーターの仕事で

南極に行き、極地の風景に魅了されたからだった

 

北極の過酷な環境に耐えられるように

毎食のご飯をたくさん食べて増量するなど

肉体改造などに励んで準備した

 

1985年にカナダから北極入りして

"マコ隊"の隊長として男性の隊員を率いて

北極点を目指した

 

しかし北極の表面の氷の状態が悪くなり

これ以上進むと命の危険が出てくると言われ

北極点まであと146キロの地点で断念

この北極探検で多額の借金を背負うことになった

 

(和泉がこれ以上進むことを諦めた地点)

 

2度目の挑戦で北極点到達に成功!

 

初めての北極探検失敗で背負った

借金を返済すべく

帰国後は講演や女優業に邁進して

見事に借金を全額返済

1989年2月に2度目の北極探検へと向かった

 

前回と同じ方法で北極点を目指し

5月10日に北極点到達に成功

女性として到達成功は世界で2人の快挙だった

 

この北極探検は本を書いて出版したり

到達成功後も何度も北極に足を運び

和泉自身が撮影した写真を収めた

写真集まで出版した

 

その後は女優業はほとんどやらなくなったが

かつての日活仲間と交流したり

講演活動をしたりと

ときどき元気な姿を見せている

 

この記事は後編へと続きます

 

参照:

キネマ旬報社『日本映画俳優全集・女優編』

和泉雅子著『私(マコ)だけの北極点』

 

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